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29 大人への

 気まずい空気の中、高志と桃子は少し距離を置いて座り、倫太郎の帰りを待った。


「高志君、ごめんなさい」


 桃子は、抱えている膝に向けて言葉を放った。


「もう、いいよ」


 高志も膝に答えた。


 桃子から、ススムのことを聞かされた。

 ススムとは面識がなく、打ち明けられた内容は、俺に知られないよう口止めされていたという。

 だからといって怒りは収まらないが、板挟みになっていた桃子のことを思うと、今までの嘘を責める気にはなれなかった。


 俺が麗奈と付き合うより前から、ススムと麗奈は不倫関係にあった。

 火遊びのつもりが、麗奈の愛情は異常なほど深く、次第に家庭に踏み込まれる不安を覚えた。

 家庭を捨てる気はなかったススムは、麗奈の目を他に向けようとして俺を紹介したとのことだ。

 俺はその罠にまんまとはまり、どっぷりと麗奈の魅力に浸かっていった。


「ススムッチが、あの姿でいる理由も訊いた?」


 桃子はこちらを見て、すぐに目を逸らし、小さくうなずいた。


「麗奈さんの誕生日、会う予定だったの。それで、迎えに行って事故に……」


 誕生日? 俺が事故った、あの日? 

 腕を組み、事故に至るまでの時間を思い返す。

 前のセダンが路駐車を追い越し、俺もアクセルをまわした。

 麗奈が手を振り、俺も片手を上げた。


「あぶないっ」

 

 あの時の声が、よみがえる。


 そうだ、あの時――。


 路駐車のドアが開いていた。

 青い車……。覚えがある。何度か乗った。

 ススムの車だ。

 麗奈が手を振っていた相手は……。

 ススム? 


 まじか……。最悪だ。

 舌打ちが漏れ、下唇を噛んだ。

 それからどうなったっけ。

 

 バイクが操作不能になる。身体に衝撃。更に衝撃音が続き、誰かの悲鳴が耳を突き刺した。

 一連の流れが、少しずつ繋がっていく。


「事故について詳しく聞いた?」


「……うん。車から降りた時に突っ込まれたかもって言っていたけど、その後は覚えてないみたい」


 そうか――。

 俺は車を避けたから、ススムに突っ込んだのは、俺をあおっていた後続車だ。

 麗奈を迎えに行った二人が、そろって事故で死ぬなんて、なんて情けない結末なんだ。

 しかも、自分が二番手だったという事実を、死んでからつきつけられた。その憎きライバルと、死後の世界で共存している。

 なんてこった。

 真実に押し潰されそうになり、頭を抱えて唸った。


 その後も、恐いもの見たさ半分で、様々な質問を桃子にぶつけた。

 ただ、ある事実については聞くべきではなかった。


 ――俺専用の物については。


 麗奈が捨てようとしていた男用の物は、ススムも使っていたという。

 思い返せば、すべて麗奈が一人で買いそろえていた。

 髭剃りやクシ、ギリギリマグカップまでは耐えられる。

 だが、箸やボディスポンジ、歯ブラシは……ゲエ。考えるだけで吐き気がする。

 ススムはあの部屋には泊まっていない。せめて歯ブラシは使っていないと願いたい。

 突き詰めないほうが身のためと判断した瞬間、以前、麗奈が黒い歯ブラシを握って泣いていた姿が脳裏をよぎり、「うえっ!」と声をあげた。


「大丈夫?」


 桃子に聞かれ、微笑もうとしたが、口の中に嫌な感覚が広がり、みるみる溜まっていく気がして、顔をしかめた。


「高志君、あのね。私もしかしたら、そろそろここを離れるかも」


 その言葉に驚き、大声を上げた。


「なんで!」


「わからないけど、私、薄くなってるような気がして。このまま消えるのかなって」


 桃子の全体を見回した。

 あ……。

 確かに、壁のアイドルのポスターが、桃子を通して透けて見える。


「え! ええっ!」

 

 慌てて桃子に駆け寄った。


「薄さに気づいたころから、重さが抜けたような感覚で、なんだか動きが定まらないの。それに、実は昨日、エレベーターに乗れたのよ」


「そうなの?」


「だけど、一人が不安で、すぐに戻ったの」


「どうして戻ったの。ススムッチと赤の他人なら、ここに留まる理由はないだろ。それはきっと、行きたい人のところへ行けるチャンスだったんじゃないのか」


 桃子は微笑みながら、首を横に振った。


「留まる理由はあるよ」


「どういうこと?」


 桃子は、水中に入る前のように大きく息を吸い込み、口からゆっくりと息を吐いた。


「私ね、小中学校の時、同じ学校だったの」


「誰と?」


 桃子が、右の人差し指を立てて、こちらに向けた。

 高志は、俺? という疑問を眉で表した。

 同じ学校と言われても、いまいちピンとこない。


「私は目立たなかったから、高志君は覚えてないと思う」


 確かに記憶にないが、正直に言えず、黙っていた。


「クラスも違うから、知らなくて当然なの」


「そう……だったんだ」


「うん。私ね、ずっと高志君のことが好きだったの」


 言いながら桃子は、抱えていた膝に顎を乗せた。

 高志は言葉に詰まり、桃子の横顔を盗み見た。

 同学年の女子の顔を思い出そうとしたが、今の桃子と重なる顔はなかった。

 何か言わなければと思い、「ありがとう」と、気持ちを素直に言葉にした。


「もしかして、花屋で会った時から、俺に気づいていたの?」


「うん。すぐにわかった。それに、麗奈さんが高志君の名を呼んで確信した」


「言ってくれればよかったのに」


「毎週、彼女を迎えにくる幸せな人に、告白なんてできないわよ」


 桃子は、バカねというように薄く笑った。


「そっか……」


 言ってくれればよかった、という自分の言葉には、落胆が混ざっていた。


 花屋で桃子と出会った頃、麗奈以外の女性が心に入る隙は無かった。だが、あの時に想いを知っていたらと考えると、わずかに後悔がよぎる。

 こうした変化は、麗奈の化けの皮が現れたからだけではない。

8 05号室で桃子と再会してから、何かが少しずつ動きはじめていたのかもしれない。


「私、こうなったとき、両親の次に高志君のことを思ったの。死んで追いかけてくるなんて、気味悪がられると思って言えなかったけど……最後にここに来られてよかった。気持ち、伝えられたしね」


 桃子は、はにかむように笑った。

 散々、麗奈麗奈と騒ぎ嘆いていた自分が猛烈に恥ずかしくなった。桃子はどんな思いで、俺を見ていたのだろう。


「桃子ちゃんは、どうしてこっちに来たのか、聞いてもいいかな」


 ずっと気になっていた質問を投げかけた。

 すると、桃子には珍しく、麗奈のようないたずらな表情をして言った。


「ヒミツ」


 その言い方が可愛くて、ふっと声が漏れた。

 言いたくないのなら、踏み込むべきではないと思い、それ以上は聞かなかった。


「もう、あっちには戻れないとわかったら、理由なんてどうでもよくなっちゃった」


 桃子の顔が、少しずつ薄れていく。


「桃子ちゃん!」


 慌てて、桃子の手を掴もうとする。

 桃子は驚いたように手を引っ込めた。


「あっ、ごめん」


「違うの。嫌なんじゃなくて、私……手荒れ……恥ずかしいから」


 そう言うと、以前と同じように指を折り曲げて拳をつくり、手を後ろに隠した。


「俺たち、感覚ないから大丈夫だよ」


 笑いながら言うと、桃子も「あは、そっかぁ」と照れたように笑み崩れた。


そして、優しく微笑んだまま――


――消えた。


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