28 その覚悟
「そろそろ自分の家に帰りなよ」
倫太郎は、机で小説を読みながら言った。
「あそこは、俺の家じゃないし」
「ガキみたいなこと言わないでよ。僕、霊と寝るなんて嫌だよ」
「あの男に会いたくない」
我ながら、子供みたいで情けないが、ひらきなおって倫太郎に甘えていた。
「だから僕、前に言ったでしょ。もうここを離れろって」
「聞いた気もするけど、そういう意味だと思わなかった。ってか倫太郎、前にってどういうこと? ススムッチと麗奈の関係を知ってたの?」
「知らないよ。僕、もう眠たいんだけど。本当に帰ってよ」
「やだ。それだけズケズケ言うくせに、いまさら気をつかうなよ。ほぼほぼ現実知っちゃっているわけだし」
「さっきまで、何も知りたくないとか言っていたのに、コロコロ変わり過ぎだよ。ったく、その女々しい性格どうにかならないの? 同年代と喋っているような気になるよ。前から知ってたかなんて、ここに住んでるんだから当然だろ」
「ススムッチが来るのを見てたってこと?」
「そりゃあ、あの二人は恋人同士なんだから来るだろ」
「あいつ既婚者なんだけど」
「ああ、だからか」
「なに?」
「だからススムさんは平日だけだったのか。で、金曜になると高志が現れた。あのお姉さんの、堂々と二股かけんのはびっくりだけど、それに気がつかなかった高志はもっとすごいね」
すべて図星で、ぐうの音もでない。
彼女を、一度も疑ったことがなかった。むしろ常に安堵に包まれ、彼氏として浮かれ、人生を満喫していた。
「倫太郎君、入ってもいいかしら」
廊下から、桃子の声が聞こえた。
「駄目、入れないで」
声を潜めて言うと、倫太郎はうなずき、扉に向かって言った。
「どうぞ」
ひっぱたこうとして、手がすり抜ける。
桃子が入ってきた。
どうにも顔を合わせる気になれず、背を向けて床に座った。
桃子のことは、信頼して多くを語ってきた。語り過ぎた。
救われていたのは事実だが、皆に裏切られていた真実を知った今、やさぐれた心は、どうやっても変わりそうにない。
誰も声を発さず、本のページをめくる音だけが続いていた。
壁時計を見上げて、ぼんやり秒針を追いかけていると、倫太郎が口を開いた。
「こうなったら、もう一つ真実を話しておこうかな」
もう、何とでも言えよ。
返事の代わりに、小さく息を吐いた。
「高志に呪われるのも嫌だから、はっきりさせておくね。麗奈さんとのキス、あれは本当にあっちからだから」
「おまえが覆いかぶさっておいて、それはないだろ」
「廊下でふらついてたの。部屋まで運んでくれって頼まれたんだよ。肩貸さないわけいかないでしょ」
「具合悪かったんだろ」
「お酒臭かった。で、ソファに寝かせた途端、襟元を引っ張られた。あの人どうかしているよ。言ったら高志ショックだろうと思って」
「麗奈は、小児性愛者じゃない」
「僕はもう中学生だぞ」
「まだじゅうぶんガキだ。そもそも、思春期の欲望を麗奈のせいにしてすり替えるなよ」
「嘘じゃないわ」
唐突に、桃子が割って入ってきた。
「私、その場にいたの。大切な人を失って、壊れちゃったのかなと思ったし、何よりもそんな彼女の一面を、高志君に知らせたくなかった」
「大切な人」を、あえてススムと言わなかったのだろうが、その優しさは、かえって心をつき刺した。
麗奈という女がわからなくなった。知れば知るほど、麗奈が腕をすり抜けて遠ざかっていく。
愛する女の本当の顔を、生きていても死んでいても気づけず、中坊に遠まわしに諦めるように気を遣われていたなんて、認めたくない。
真実は、二人で過ごした時間の中にだけ存在している。
麗奈を愛し、愛されてきた。
この想いを信じ、決心が揺らぐ前に口を開いた。
「倫太郎、頼みがある」
倫太郎は、開いていた小説を机に伏せて顔を上げた。
「麗奈を、助けてほしい」
「どういうこと?」
言いながら椅子を回し、高志の方に身体を向けた。
「トイレのカメラを仕込んだ奴に見当がついている。おそらくそいつは玄関にも何か隠した。それを麗奈に知られる前に取り出したい」
倫太郎は、鼻から大きく息を吐いてから言った。
「それってお人好しすぎない? いまさら浮気女にいい顔したって、麗奈さんの気持ちは」
「倫太郎君!」
桃子が、語気強く遮った。
「まあ、そう言うな。今さら何したって、麗奈の気持ちは変わらないよ。けど、それとこれとは別だ。カメラのことを伝えれば済む話かもしれない。でも、部屋に誰かが入ってたなんて思わせたくない。気づかれないうちに片づけたいんだ」
口にした言葉が本心かと問われれば、自分でもよくわからない。
陰で麗奈を救って安心したところで、わだかまりは消えずに残るだろう。
けれど、せめて自分がかっこいいと思える自分でありたい。傷つけられた腹いせに、その相手を見捨ててしまう弱い男に成り下がりたくない。
「それ、強がりじゃなくて本気?」
高志は、倫太郎の顔を見てうなずいた。
「ああ」
倫太郎はゆっくりと天井を仰ぎ、二、三度瞬きしてから、中空に言葉を放った。
「で、どうやって忍び込むの?」
訊かれて、高志も天井を仰いだ。
丸い照明を見あげたまま、頭が真っ白になる。ふいに805号室に進入する江崎の姿が浮かび、ひとつ、案を思いついた。
それを実行するには、倫太郎の力がいる。
日中の外出を要する依頼だったため、内容を伝えた時は、今までにない暴言と暴力で拒否されたが、どうにか外へ向かわせた。




