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九 最後の下書き
霧子の疑いは、完全に晴れた。
警察の保護を受け、遠くの街での新しい暮らしが決まった。出発の朝、慎平は仕事を休まず、地下二階にいた。
見送りには行かなかった。
彼女が望んだ別れではなかったし、自分にその資格があるとも思えなかった。互いの背中を向けるように、二人は最後まで、顔を合わせなかった。
夜、慎平は、向かいの窓を見た。
暗い。青い光は、もうない。
震える指で、下書きフォルダを開いた。最後の更新が、そこにあった。
〈九条さん。
本当は、あなたと一緒に、あの部屋を出て、どこかで普通に暮らしたかったです。それが、私のたった一つの夢でした。
でも、私といたら、あなたを傷つけてしまう。だから、ここで終わりにします。
私に、生きる尊厳をくれて、本当にありがとうございました。
霧子〉
慎平は、長いあいだ画面を見つめていた。
何度も、返事を書こうとした。「俺も同じ気持ちでした」「今からでも」「会いに行く」。どれも、書いては消した。送れない手紙の、いちばん正直な推敲だった。
最後に、彼は、霧子の文章を、指でそっと選択した。
デリート。
アカウントごと、削除する。
画面が真っ暗になった。ただの黒いガラスに、四十五歳の男の顔が映っている。涙で濡れて、目が赤い。けれど、ひどく静かな顔だった。




