第七話 返品はお受けしません
認定式の朝、町の薬師会館は、乾燥させた青鈴草の香りで満たされていた。
王都の薬事使節が、クララの店で作られた薬をローレア一帯へ配るための認定書を持ってきたのだ。会館の長机には、町の薬師たちと施療院の代表が座っている。
薬草をあしらった籠の奥で、一枚の羊皮紙が朝の光を受けていた。
クララは前列の端に立ち、薬草の苦い香りをゆっくり吸う。名を呼ばれるのを待つことは、三年前の祝宴と同じだった。けれど、今日ここにいるのは、誰かの妻としてではない。
薬事使節が認定文を開いた。
「王国北部連携調薬所、青鈴草薬店。責任薬師、クラ・エーレン」
拍手は派手ではなかった。薬の分量を確かめる時のような、確かな音が順に広がっていく。
フェリクスはクララの左後ろにいた。手を差し出せば届く距離だが、その手で行き先を決めるつもりはないと、彼の立ち位置が告げている。
使節が認定書を持ち上げた時、会館の後方から浅い息をのむ音がした。
ギルベルトが、開いた扉の前に立っていた。
彼は子爵の正装をまとっていたが、胸元に家の紋章はない。後ろにはリヴィアとベアトリスもいる。三人は誰とも腕を組まず、それぞれの足で床を踏んでいた。
「式を妨げることは承知している。しかし、この認定がクララの信用を示すものなら、その信用を私が傷つけた事実も、同じ場で明らかにさせてほしい」
薬事使節はクララに目を向けた。
「お聞きになりますか」
嫌なら退去を求められる。フェリクスが事前に示した選択肢は、今もクララの手の中にあった。
クララはうなずいた。
「どうぞ。ただし、一度だけです」
ギルベルトは正面へ進み、薬師たちへ一礼する。いつも結論を先に言う男が、その日は一つずつ言葉を置いた。
「三年前、私は祝宴の席で、クラ本人より先に離縁を公表した。話し合う機会も、身を守る準備も与えなかった。あの場で彼女の尊厳と選択権を奪ったのは、私だ」
会館の窓が風に鳴った。誰も私語をしない。
「離縁後も、私はクラに手紙を送った。事業の相談、母と妻の関係、私が人を怒らせた時の謝り方。彼女なら読み、考え、私のために答えを整えると思っていた」
ギルベルトはクララを見た。
「離縁しておきながら、妻であった時と同じものを求め続けた。私は七通の手紙すべてで、彼女の人生をまた私の用事に使おうとした。それを愛情と呼ぶことはできない」
私は寂しかったのだと、彼は言わなかった。リヴィアを責めてもいない。正しい謝罪は、聞いていた時間まで間違いではなかったと思わせるほど、静かで正確だった。
クララは胸の奥に残る冷たさを確かめた。痛みがないわけではない。けれど、その痛みは戻り道を指していなかった。
「アウスター子爵。謝罪は受け取ります」
ギルベルトの肩が、ほんの少し下がった。緊張がほどけたのだ。彼は思いやりに似た安堵を浮かべ、携えていた小箱を机に置く。
中には、紫の封蝋がついた七通の書簡があった。どの封にも刃の跡はない。
「返事を待つことさえ、当然と思っていた。すまなかった」
彼は七通とクララを交互に見る。一度受け取られた謝罪が、次の願いも届けてくれると信じたのだろう。
「一度だけでいい。もう一度、私を選んでくれ」
その願いは、かつてクララが一番聞きたかった言葉に似ていた。祝宴で離縁を告げられるより前なら、たった一度でも自分を選んでほしいと願った夜がある。けれど今、目の前の男が求めているのは、昔の妻へ戻ることではないと言いながら、やはり最後の決定をクララに委ねることだった。
謝罪の後に願いを差し出せば、受け取ってもらえるかもしれない。受け取られなければ、せめて断る役目を相手に任せられる。ギルベルトは以前ほど無自覚ではない。それでも、自分の希望の終わらせ方をクララへ預けている。
クララは、その不完全さまで含めて彼の謝罪を受け取った。正しく悔いることは、過去を正しくする力ではない。許された先に同じ関係が待っているわけでもない。薬が熱を下げても、病む前の身体へ時間を戻せないのと同じだった。
広間の空気が止まった。
クララは口を開く。その前に、靴音が一つ進み出た。
リヴィアである。彼女は折りたたんだ紙を開き、青ざめた顔を上げた。
「私は、青鈴草薬店の薬の価格と配布に不正があると言いました。事実ではありません。店とクラ様の信用を傷つけるための虚言でした。この訂正を薬師組合と施療院の記録に残してください」
声は二度揺れたが、最後まで消えなかった。使節が記録官へ合図する。羽ペンが紙を擦る音だけが続いている。
訂正文を読み終えたリヴィアは、その紙を胸に押し当てた。
「これで、あなたから奪ったものは返しました。だから、クラ様」
濡れた青い瞳が、クララをまっすぐ捉える。
「夫を返して」
あまりにも歪な願いは、かえって静かだった。町の薬師たちは目を伏せることも、笑うこともしない。リヴィアが自分の言葉を最後まで聞くための沈黙があった。
クララは彼女へ向き直る。
「三年前にお返ししましたが。今のご夫婦の問題を、元妻の店へ持ち込まないでください」
リヴィアの指が、訂正文の端を握る。
「でも、ギルベルトはあなたを」
「アウスター子爵は、誰かが受け取る品物ではありません。ご自分の意志と責任を持つお方です。リヴィ様が共に暮らすことを望まないのなら、それもご自分でお伝えください」
夫を返すという言葉は、そもそも受け取る人間を必要としない。クララは、三年前に返した家の鍵の重さを思い出す。あれは男一人の所有を手放した証ではなかった。誰かの家を守る義務を、持ち主へ戻しただけだった。
ギルベルトの顔に浮かんだ安堵は、まだ完全に消えていなかった。謝罪を受け取ったクララなら、昔のように彼の望みまですくい上げるかもしれない。その希望が彼の目にあった。
クララは、その希望を見たうえで、自分のために言う。
「お断りします。あなたを選ばない今の私を、私は大切にしております」
王都の使節は、認定書を胸の高さに保ったまま一度だけ目を伏せた。町の薬師長は組んでいた指をほどき、隣の若い薬師は息を吐く。誰もギルベルトを責めず、誰もクララの代わりに勝利を宣言しない。ここにいる全員が、一人の人間が自分の人生を選び直す瞬間の目撃者となっていた。
クララの背後で、フェリクスの靴は動かなかった。助けを求めれば来る。けれど求めていないうちは、クララの言葉が届く場所を奪わない。その沈黙が、どんな慰めよりも温かい。
ギルベルトは何も言わなかった。
七通の封蝋が、朝日の下で無傷のまま光っている。開けられなかったのではない。開けないと、クララが決めたのだ。彼はそれを、ようやく目の前で受け取っていた。
その沈黙へ、ベアトリスの声が入った。
「クララさんが奪ったものは何もない。あなたたちは、自分で選んだ暮らしを三年かけて使い果たしたのよ」
リヴィアが顔を上げ、ギルベルトも母を見た。
「私も、あなたたちの暮らしをクラさんに直させようとしました。それはもう謝罪しました。だから、今ここで、あなたたちの代わりにクラさんへ何かを求めることはしません」
ベアトリスは息子に近づかず、リヴィアの肩にも触れようとはしない。引き取るべき責任と、他人に背負わせてはいけない責任を分けて、一人で立っていた。
リヴィアは訂正文を記録官に渡した。
「分かりました。お義母様、私は別の家へ帰ります」
ギルベルトは引き止めなかった。かわりに小箱から七通を取り出し、両手でクララに差し出す。
「これは、クラのものではないな」
「はい。差出人へお返しします」
クララは封に触れず、小箱ごと彼のほうへ押し戻した。ギルベルトの手が、以前よりも重いものを支えるように下がる。
「分かった」
短い言葉だった。クララの心を確かめる質問も、これからの彼の孤独を慰める依頼も続かない。
後方のフェリクスは、まだ一歩後ろにいた。彼はクララの代わりに一言も発せず、終わったのかと目だけで尋ねている。
クララは小さくうなずいた。
それを見てから、フェリクスは初めて隣へ並んだ。守られたのではない。クララが自分で閉じた扉のこちら側に、彼が来ただけだった。
薬事使節が、あらためて認定書を両手で持つ。
「エーレン店主。この認定をお受けになりますか」
今度の問いは、クララの望みだけを尋ねていた。
「謹んでお受けいたします」
会館を満たした拍手の中、クララは認定書を受け取った。羊皮紙は、古い鍵よりも軽く、自分で選んだ薬草かごよりもまっすぐに腕へ収まった。
認定証に記された名は、クララ・エーレン。ただそれだけだった。




