第六話 彼が数えたもの
返された鍵は、三年前と同じ音で机へ落ちた。
黒鉄の軸に銀の蔦。リヴィアが置いた鍵を、ギルベルトは二日間そのままにしている。
屋敷の扉は家令の鍵でも開く。倉庫も薬庫も、それぞれ担当の使用人が管理していた。妻が鍵を返したからといって、家が閉じるわけではない。
三年前も、そう考えた。
夕食の鐘が鳴り、ギルベルトは食堂へ向かった。母は頭痛を理由に部屋から出ず、リヴィアの席には皿が置かれていない。
長い卓の端に、自分の分だけがある。
料理人は優秀だった。焼いた肉の加減も、温野菜の塩も申し分ない。給仕は音を立てず、葡萄酒が減れば注ぎ足す。
「下がっていい」
一人になると、卓上の燭火まで広く感じられた。
リヴィアが去る前に言った言葉が残っている。
何をしても見捨てられなかった頃の、あなた自身。
ギルベルトは反論できなかった。反論に使える事実を探し、見つからなかったからだ。
クララと暮らした五年間、自分は何を得ていたのか。
妻として申し分ない。
離縁を告げた夜、彼はそう評した。仕事に合格点を与えるつもりで、一人の女が自分のために選んだ日々を役目へ押し込めた。
「母の誕生日」
声に出すと、給仕のいない食堂へよく響いた。
毎年、母へ贈る香油をクララが選んだ。母は百合の香りを好むが、頭痛の時には強い香りを嫌う。だから冬の誕生日には柑橘の薄い香油を用意し、百合は春の祝いへ回していた。
ギルベルトは三年前、その違いを知らなかった。
「ベルナー伯爵の娘」
娘が肺を患った時、クララは伯爵へ薬を送り、返事を急がせない。苦い薬を飲めるよう、乾燥林檎も添えてある。ギルベルトが水路工事の遅れを強い文面で責めた後も、伯爵は会議へ来た。娘が自分で林檎の袋を開けたと笑い、工事の話は明日聞くと言った。ギルベルトはその礼を、自分への信頼として受け取った。礼状には、薬の調合と乾燥林檎を選んだクララへの丁寧な礼が二行ある。書庫へ戻した紙は今も残っている。ギルベルトは、その二行だけを読み飛ばしていた。
実際には、クララがその厳しさの後へ、人を置いていた。
「厩番のハンス。料理人の妹のマルタ。北村の石工、オットー」
名を連ねるたび、思い出す場面がある。
ハンスの息子が兵学校の試験を受けた日、クララは厩の仕事を減らした。マルタが出産する月には、料理人を早く帰した。石工のオットーが橋の事故で腕を傷めた時、働けない冬の薪を届けさせた。
ギルベルトは、その都度許可の署名をしている。
書類へ名を書いたのは自分だから、自分が領民を守ったと思っていた。誰が困っているかを見つけ、何が必要かを聞き、彼の机まで届く形にしたのはクララである。
「老家令の退職」
三年前の祝宴で、リヴィアのために席を移された男。老家令はその春に辞めた。
年齢を理由にしたが、彼は退職の挨拶でクララの居場所だけを尋ねた。ギルベルトは知らないと答え、それ以上聞かなかった。
知らないままでよいと、彼は決めている。去った妻の行き先など、自分の責任ではないと考えた。
食事は冷え始めている。
ギルベルトは手をつけなかった。数えることを止めれば、また都合のよいところで終わらせる。
「ベルナー伯爵。騎士団長。王都の従兄。母。使用人たち」
自分が言葉を誤った後も、離れずにいた人々。
クララは謝罪を代わりに口にしなかった。翌朝、見舞いの品や会う時間を整え、ギルベルト本人が謝れる場所まで用意している。相手の怒りが静まるまで、どの言葉が傷つけたかを夜に説明した。
彼は説明を聞き、翌日には正しい行動を取った。
一度直せば、自分は最初から誠実な人間だったことになる。クララがそう見せてくれた。
「夜」
最後の言葉は小さくなった。
水路の工事が崩れた夜。父のような当主になりたくないと語った夜。子を望む母へ、まだ父親になる自信がないと打ち明けた夜。
クララは答えを急がせなかった。薬草茶を置き、窓辺の椅子に座り、ギルベルトが自分の恐れを言葉にできるまで聞いている。
朝になれば、彼は決断を下した。クララは誰にも、夫が夜に迷ったことを話さなかった。
リヴィアにも同じものを求めた。
妻なら聞く。妻なら覚える。妻なら自分の言葉の奥を理解する。
リヴィアが歌の話をした時、領地の相談を重ねた。彼女が答えられなければ、クララなら聞いたと口にした。別の女を選んだ後も、選ばれ続ける自分だけを欲しがった。
「私は何を返した」
離縁の条件。持参金。宝石。暮らしに困らないだけの年金。
どれも、自分が受け取ったものではなかった。
クララが費やした夜は返せない。名前を覚えた人々も、傷つけた後に作った機会も、彼女が黙って守った弱さも。金額へ直すことさえできない。
愛していると今になって告げるのは、返す行為にならない。
自分の喪失へ、新しい名前をつけるだけだ。
食堂の扉が開いた。
ベアトリスが入ってくる。右手首の包帯は外れ、薬の香りだけがわずかにした。
「食べていないのね」
「母上」
ギルベルトは立ち上がらなかった。
「クララに会ったと聞きました」
「薬を買いに行きました。それから、あなたとの仲介を頼みました」
「断られた」
「ええ。頼んだこと自体が誤りでした」
母は向かいの席へ座らず、返された鍵を机から持ってきた。食卓の中央へ置く。
「リヴィアは、姉の家へ着いたそうです。店への訂正も送りました」
「私はクララへ謝らなければならない」
「そうでしょうね」
「一度でいい。母上から、会うよう伝えてください」
ベアトリスの表情は変わらない。
「私が頼めば、あなたのために断られる役をもう一度クララさんへさせることになります」
「私自身が行けば、さらに困らせる」
「では、困らせない方法を選びなさい」
「何も言わずに終われと」
「あなたが何も言わずに済ませてきた分を、今さらクララさんへ受け取らせたいのでしょう」
ギルベルトは鍵を見る。黒鉄の軸は、燭火をほとんど返さない。
「謝る資格はあっても、許される権利はありません」
母はそれだけ告げ、食堂を出た。
許される権利がない。
分かっていたつもりだった。だが胸のどこかで、すべてを正しく認めればクララは耳を傾けると思っている。彼女はいつも、間違いを説明すれば次の機会を整えたから。
その期待も、クララから受け取った習慣だった。
翌日、ギルベルトはローレア施療院へ向かった。
王都の薬事使節が開く認定式の日程を確かめるためである。子爵家は地域の施療基金へ寄付しており、式への案内が届いていた。
施療院の講堂では、医師と見習いたちを前にフェリクスが話していた。
「王宮にいたころ、私は感染病棟を閉じる判断を半日遅らせました。都が混乱することを恐れたからです。その間に三人が感染しました」
静かな声だった。自分を責めてほしいとも、理解してほしいとも言わない。
「私は職を辞しました。辞めたことで責任を果たしたとは考えていません。亡くなった方の家族へ、私を許す義務はない。医師として次の判断を誤らないことだけが、私に残された仕事です」
講話の後、ギルベルトは廊下でフェリクスを呼び止めた。
「アルント院長。あの話を、クララも知っているのか」
「知っています」
「彼女はあなたを許したのか」
「クララさんが許すことではありません」
フェリクスは返答を飾らなかった。
彼は自分の弱さを話しても、その後始末を聞いた相手へ渡さない。赦しを持たない人から、優しい言葉を引き出そうともしない。
ギルベルトは、八通目の手紙が入った内ポケットへ手を置いた。
認定式でクララの名が呼ばれる。王都の使節も、町の薬師もいる。彼女が最も大切にしている仕事の場へ、自分の事情を持ち込むべきではない。
それでも、公に奪った名誉は、公に事実を認めなければ戻らない。
謝罪を受け取るかはクララが決める。自分は、五年前の愛を妻の仕事と呼んだ事実を隠さない。
そこまで考えても、心の底にはまだ一つ、醜い願いが残る。
正しく謝れば、今度こそ彼女が自分を見るのではないか。
ギルベルトはその願いも声にした。
「私は妻を失ったのではない。彼女が毎日、私を選んでいたことを失った」
講堂にはもう誰もいない。返事もない。
母の誕生日、領民の名、残ってくれた友人、弱さを預けた夜、返されなかった七通。
数え終えた時、戻るものが一つもないことだけが残った。




