第三話 七通とも、開かれていない
リヴィアの外套からは、雨と薬草の匂いがした。
宿の居間へ戻った妻は、暖炉の前へ立ったまま手袋を外そうとしない。左手の指輪が掌側へ回っている。
「クララに会ったのか」
ギルベルトが尋ねると、リヴィアは濡れた髪を払った。
「最初に言うことがそれなのね」
「店へ行ったと聞いた。騒ぎを起こしたなら、先方へ詫びなければならない」
「先方ですって。あなたの前妻でしょう」
リヴィアは手袋を卓上へ落とした。宿の女中が拭いたばかりの木に、暗い水染みが広がる。
「あの人、私が誰か分からなかったのよ。顔を見て、どなたでしたかと言ったわ」
ギルベルトは返す言葉を選んだ。クララは人の顔と名を覚える。狩猟会で一度会っただけの騎士の従者まで覚えていた。
だから、分からなかったはずがない。
「三年も会っていない。驚いたのだろう」
「私を慰めるために言っているのか、自分を慰めているのか、どちらかしら」
リヴィアは寝室へ入り、扉を閉めた。
妻を追うべき場面だった。三年前なら、クララが二人の間へ茶を置き、何に傷ついたのかを一つずつ聞いただろう。
今は誰も来ない。
ギルベルトは女中を呼び、水染みを拭くよう命じた。女中は布を持ってきたが、誰の手袋か尋ねない。宿の者に夫婦の事情を説明する必要などないと考えたところで、彼は黙った。
説明しないままでも理解されていた日々が、確かにあった。
離縁の翌朝、最初に困ったのは母の薬草酒だった。
料理人は銘柄を知っていたが、蜂蜜の量までは知らない。母は甘すぎると杯を戻し、クララなら覚えていたと言った。
次はベルナー伯爵の娘への快復祝い。ギルベルトは水路工事の報告を先に送り、伯爵から短い返書を受け取った。祝いの品が遅れたことを知ったのは、その翌月である。
使用人の一人が辞めた時には、理由を聞かなかった。後から、その男の母親が長く寝ついていたと家令が教えた。クララは月に一度、薬を届けていたらしい。
小さな行き違いだった。
新しい家令を雇い、贈答の記録を作らせ、薬草酒の分量を料理人へ覚えさせた。家は動く。ギルベルトはそれで十分だと判断した。
リヴィアは屋敷を明るくした。王都の歌手を招き、客間の壁を塗り替えた。彼女の歌を聞く夜は、確かに華やかである。
ただ、客が帰った後に話すことがなかった。
リヴィアは喝采の大きさを語り、ギルベルトは領地の判断について話した。彼女は難しい顔をして、クララへ話せばよいと口にした。
一度、二度。その名が会話に増えるにつれ、リヴィアは自分から言わなくなった。
ギルベルトは、前妻と比べたつもりはない。
花を生ける場所が違う。客への返事が遅い。母の誕生日に何を贈るか決まらない。違いを指摘しただけだ。
その積み重ねが、リヴィアを青鈴草薬店へ向かわせた。
叱るより先に確かめるべきことがある。ギルベルトは外套を取り、雨の町へ出た。
青鈴草薬店は大通りから一本入った場所にあった。軒下に薬草の束が干され、看板にはクララ・エーレンと記されている。
アウスターの名はない。
扉を開けると、黒髪の男が薬箱を抱えて出てくるところだった。王宮にいたころ一度だけ会ったことがある。辺境伯家の次男、フェリクス・アルント。
「アルント院長。クララに会いたい」
「エーレン店主は往診中です」
「戻るまで待つ」
「面会は断ると伺っています」
ギルベルトは内ポケットから書簡を出した。昨夜、宿で書き直した八通目である。
「これを渡してくれ。以前の手紙では、言葉が足りなかった」
フェリクスは受け取らない。
「以前の手紙がどう扱われているか、ご覧になりますか」
彼はカウンターの内側へ入り、下段から木の保管箱を出した。蓋を持ち上げる。
赤い封蝋が七つ、同じ向きに並んでいる。
ギルベルトは自家の印章を見間違えない。最初の一通は、離縁から一年後に送った。三通目には王都で会えないかと書いた。最後の一通には、今度こそ本心を伝えたいと記してある。
すべて、封蝋が割れていなかった。
「一通も読んでいないのか」
「はい」
「なぜ捨てない」
「それもエーレン店主がお決めになることです」
フェリクスは箱の蓋を閉じた。勝ち誇った顔はしない。慰めもしなかった。
それがギルベルトには、かえって不自然に感じられる。
「私はようやく、誰を愛していたか分かったんだ」
「ご本人へ伝えるおつもりですか」
「そのために来た」
「伝えれば、何が変わります」
「クララは、私が愛していなかったと思っている。誤解が解ける」
「離縁の席で、愛していないと告げたのはアウスター子爵でしょう」
「あの時は理解していなかった」
「今は理解した。だから返事をするべきだと」
問われている形なのに、声には疑問の響きがなかった。
フェリクスは八通目へ目を落とす。
「返事がないことも返事です、アウスター子爵」
「読まなければ、私が変わったことは伝わらない」
「読ませる権利をお持ちだとお考えなら、変わったかどうかを私が論じる意味はありません」
男は薬箱を抱え直し、店の外へ出た。扉の鈴が静かに鳴る。
ギルベルトは八通目を持ったまま、カウンターの前に残された。
七通を書いた時期も理由も、すべて覚えている。けれど、受け取ったクララがどこで働き、誰の薬を作り、どんな朝を過ごしたかは何一つ知らない。
今度の手紙には、それを尋ねる言葉から書くべきだろう。
誤解を解くには、まだ言葉が足りない。
ギルベルトは封筒を内ポケットへ戻した。
クララの三年に、彼の名前は一行もなかった。




