表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「夫を返して」と言われましても、三年前にお返ししましたが  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/8

第三話 七通とも、開かれていない

リヴィアの外套からは、雨と薬草の匂いがした。


宿の居間へ戻った妻は、暖炉の前へ立ったまま手袋を外そうとしない。左手の指輪が掌側へ回っている。


「クララに会ったのか」


ギルベルトが尋ねると、リヴィアは濡れた髪を払った。


「最初に言うことがそれなのね」


「店へ行ったと聞いた。騒ぎを起こしたなら、先方へ詫びなければならない」


「先方ですって。あなたの前妻でしょう」


リヴィアは手袋を卓上へ落とした。宿の女中が拭いたばかりの木に、暗い水染みが広がる。


「あの人、私が誰か分からなかったのよ。顔を見て、どなたでしたかと言ったわ」


ギルベルトは返す言葉を選んだ。クララは人の顔と名を覚える。狩猟会で一度会っただけの騎士の従者まで覚えていた。


だから、分からなかったはずがない。


「三年も会っていない。驚いたのだろう」


「私を慰めるために言っているのか、自分を慰めているのか、どちらかしら」


リヴィアは寝室へ入り、扉を閉めた。


妻を追うべき場面だった。三年前なら、クララが二人の間へ茶を置き、何に傷ついたのかを一つずつ聞いただろう。


今は誰も来ない。


ギルベルトは女中を呼び、水染みを拭くよう命じた。女中は布を持ってきたが、誰の手袋か尋ねない。宿の者に夫婦の事情を説明する必要などないと考えたところで、彼は黙った。


説明しないままでも理解されていた日々が、確かにあった。


離縁の翌朝、最初に困ったのは母の薬草酒だった。


料理人は銘柄を知っていたが、蜂蜜の量までは知らない。母は甘すぎると杯を戻し、クララなら覚えていたと言った。


次はベルナー伯爵の娘への快復祝い。ギルベルトは水路工事の報告を先に送り、伯爵から短い返書を受け取った。祝いの品が遅れたことを知ったのは、その翌月である。


使用人の一人が辞めた時には、理由を聞かなかった。後から、その男の母親が長く寝ついていたと家令が教えた。クララは月に一度、薬を届けていたらしい。


小さな行き違いだった。


新しい家令を雇い、贈答の記録を作らせ、薬草酒の分量を料理人へ覚えさせた。家は動く。ギルベルトはそれで十分だと判断した。


リヴィアは屋敷を明るくした。王都の歌手を招き、客間の壁を塗り替えた。彼女の歌を聞く夜は、確かに華やかである。


ただ、客が帰った後に話すことがなかった。


リヴィアは喝采の大きさを語り、ギルベルトは領地の判断について話した。彼女は難しい顔をして、クララへ話せばよいと口にした。


一度、二度。その名が会話に増えるにつれ、リヴィアは自分から言わなくなった。


ギルベルトは、前妻と比べたつもりはない。


花を生ける場所が違う。客への返事が遅い。母の誕生日に何を贈るか決まらない。違いを指摘しただけだ。


その積み重ねが、リヴィアを青鈴草薬店へ向かわせた。


叱るより先に確かめるべきことがある。ギルベルトは外套を取り、雨の町へ出た。


青鈴草薬店は大通りから一本入った場所にあった。軒下に薬草の束が干され、看板にはクララ・エーレンと記されている。


アウスターの名はない。


扉を開けると、黒髪の男が薬箱を抱えて出てくるところだった。王宮にいたころ一度だけ会ったことがある。辺境伯家の次男、フェリクス・アルント。


「アルント院長。クララに会いたい」


「エーレン店主は往診中です」


「戻るまで待つ」


「面会は断ると伺っています」


ギルベルトは内ポケットから書簡を出した。昨夜、宿で書き直した八通目である。


「これを渡してくれ。以前の手紙では、言葉が足りなかった」


フェリクスは受け取らない。


「以前の手紙がどう扱われているか、ご覧になりますか」


彼はカウンターの内側へ入り、下段から木の保管箱を出した。蓋を持ち上げる。


赤い封蝋が七つ、同じ向きに並んでいる。


ギルベルトは自家の印章を見間違えない。最初の一通は、離縁から一年後に送った。三通目には王都で会えないかと書いた。最後の一通には、今度こそ本心を伝えたいと記してある。


すべて、封蝋が割れていなかった。


「一通も読んでいないのか」


「はい」


「なぜ捨てない」


「それもエーレン店主がお決めになることです」


フェリクスは箱の蓋を閉じた。勝ち誇った顔はしない。慰めもしなかった。


それがギルベルトには、かえって不自然に感じられる。


「私はようやく、誰を愛していたか分かったんだ」


「ご本人へ伝えるおつもりですか」


「そのために来た」


「伝えれば、何が変わります」


「クララは、私が愛していなかったと思っている。誤解が解ける」


「離縁の席で、愛していないと告げたのはアウスター子爵でしょう」


「あの時は理解していなかった」


「今は理解した。だから返事をするべきだと」


問われている形なのに、声には疑問の響きがなかった。


フェリクスは八通目へ目を落とす。


「返事がないことも返事です、アウスター子爵」


「読まなければ、私が変わったことは伝わらない」


「読ませる権利をお持ちだとお考えなら、変わったかどうかを私が論じる意味はありません」


男は薬箱を抱え直し、店の外へ出た。扉の鈴が静かに鳴る。


ギルベルトは八通目を持ったまま、カウンターの前に残された。


七通を書いた時期も理由も、すべて覚えている。けれど、受け取ったクララがどこで働き、誰の薬を作り、どんな朝を過ごしたかは何一つ知らない。


今度の手紙には、それを尋ねる言葉から書くべきだろう。


誤解を解くには、まだ言葉が足りない。


ギルベルトは封筒を内ポケットへ戻した。


クララの三年に、彼の名前は一行もなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ