第二話 あなたは、どなたでしたか
青鈴草薬店で最もよく売れる薬は、効き目より味に手間がかかる。
朝一番の客であるパン屋のテサは、咳止めの瓶を光へ透かした。
「先月のものより色が薄いね」
「苦味を抑えました。効き目は同じです。食後に匙一杯、水で二度に分けて飲んでください」
「高くなったかい」
「銅貨一枚分だけ。薬草が安くなる夏には戻します」
テサはラベルに書かれたクララ・エーレンの名を指でなぞり、二本買っていった。一本は同じ咳をしている妹の分だという。
店の戸が閉まると、焼きたてのパンの匂いだけが残った。
窓辺では青鈴草が小さな花を伏せている。朝のうちはよく開く花だが、昨夜からの雨で土が重い。クララは水差しを棚へ戻し、鉢の受け皿にたまった水を捨てた。
「水が多いと、かえって枯れるのね」
軟膏を待つ仕立屋の娘が言う。
「葉が元気に見えても、根は先に傷みます。今日は何も足さないほうがいいでしょう」
三年前、ローレアへ着いたクララが最初に売ったのも青鈴草の塗り薬だった。借りた調薬室で作った小さな瓶に、自分の名を書いた。
最初は手が止まった。
今では、薬包にも領収書にも同じ名がある。
昼前には雨脚が強くなった。屋根を打つ音に混じり、店の扉につけた鈴が荒く鳴る。
入ってきた女は外套の留め具を外し、濡れた裾を払った。金髪が頬へ張りつき、化粧の薄れた目元には長旅の疲れがある。
仕立屋の娘が椅子を譲ろうと立ったが、女は見向きもしない。
青い瞳が店内を走り、薬棚、客、クララの順で止まった。
「夫を返して」
雨音のほうが大きかった。
クララは手にしていた軟膏の蓋を閉めた。薬草の粉が噛まないよう、一度だけ逆へ回してから締め直す。
女の顔には見覚えがある。だが記憶の中ではもっと頬が丸く、金色の髪には白い冬薔薇と同じ金糸が編み込まれていた。
名前が出てくるまで、少し時間が要った。
「失礼ですが、どなたでしたか」
女の指が外套の端をつかんだ。左手の結婚指輪は、石を掌側へ回してある。
「リヴィアよ。リヴィア・アウスター。あなたからギルベルトを奪った女」
仕立屋の娘が椅子へ座り直した。奥で薬草を刻んでいた見習いも、包丁を止めている。
「アウスター子爵夫人。お久しぶりでございます」
「その呼び方をやめて。白々しいわ」
「ほかにお呼びする名を存じません」
クララは待たせていた軟膏を紙へ包んだ。仕立屋の娘に用法を説明し、代金を受け取る。娘は帰ろうとせず、包みを抱えて壁際へ寄った。
リヴィアは濡れた手袋をカウンターへ置く。
「ギルベルトがこちらへ来ているでしょう。あなたの店が王都と契約すると聞いて、屋敷を出たの。私には視察だと言ったけれど、七通も手紙を送っていた」
「手紙は届いております」
「返事をしたのね」
「いいえ」
「では、なぜここへ来たの」
「私には分かりません」
答えるたび、リヴィアの声だけが高くなる。クララは声を合わせなかった。咳止めの瓶が並ぶ棚は、強い音で震えると細い瓶同士が触れ合う。
「あなたが呼んだのでしょう。三年も待って、私たちがうまくいかなくなるのを」
「お呼びしておりません」
「嘘よ。でなければ、あの人が今になってあなたを愛していたなどと言い出すはずがない」
店にいた二人の客が、クララへ視線を向けた。
三年前なら、その視線の意味を先に考えただろう。客を不快にさせない返答、アウスター家の名誉を傷つけない説明、リヴィアを刺激しない声の高さ。
今、考えるのは瓶が倒れないことと、午後の客が入れるよう扉を空けることだけだった。
「子爵夫人。ここは薬を求める方の店です。ご夫婦のお話をなさる場所ではありません」
「他人のふりをしないで。あなたはあの人の前妻でしょう」
「前妻です。三年前まで」
クララはカウンター下の引き出しを開けた。仕入れの許可証、薬師組合の登録証、その下に離縁証書の写しを保管してある。
紙を一枚抜き、日付のある面をリヴィアへ向けた。
「離縁が成立したのは、王暦五百十二年、雪月二十日です。以後、アウスター子爵とはお会いしておりません」
リヴィアの視線が日付へ落ちる。
「手紙は」
「封を切っておりません」
「見せなさい」
「私宛てのものです」
クララが証書を戻すと、リヴィアはカウンターへ身を乗り出した。
「皆さん、この人は被害者の顔をしていますけれど、夫を誘い戻したのです。私が悪い女だから奪い返してもいいと考えているのよ」
パン屋のテサが、買い忘れたらしい塩入り軟膏を取りに戻ってきたところだった。戸口で外套の水を払い、リヴィアを眺める。
「クララ先生が誰かを奪う暇なんてあるかね。昨日はうちの窯番の火傷を診て、夜まで薬を作っていたよ」
「町の事情など聞いていません」
「ここはその町の薬屋だよ」
クララはテサへ礼を言わなかった。代わりに塩入り軟膏を棚から出し、いつもの場所へ置く。テサは鼻を鳴らし、代金をカウンターへ置いた。
店の奥から足音がした。
フェリクスが調薬室の白衣を脱ぎながら出てくる。施療院へ納める解熱薬の出来を確認していたのだ。
彼はリヴィアの濡れた外套と、壁際の客と、開いたままの引き出しを順に見た。
「アウスター子爵夫人。店内での大声は患者の負担になります」
「あなたには関係のない話です、アルント院長」
「この店の薬を施療院が預かっています。薬瓶が割れれば関係ができます」
フェリクスはリヴィアへ近づかず、クララの隣にも立たなかった。二人の間が見える位置で止まる。
「クララさん」
呼ばれて顔を向けると、彼は指を三本立てた。
「退店を求める、役所へ届ける、ここで話す。どれを選びますか」
選ぶのは自分だと、店の客全員がいる前で確認している。
クララは三本の指を見た。真ん中でも、彼が望みそうなものでもない。自分が今日の仕事を続けるために必要な答えを選べばよい。
「退店をお願いします。応じていただけなければ、役所へ届けます」
フェリクスはうなずくだけだった。
リヴィアは二人を見比べ、結婚指輪をまた掌側へ回した。
「ギルベルトが来れば、同じ顔でいられないわ」
「ご来店の予定はありません」
「あの人は、あなたを愛していると言ったのよ」
クララは扉を開けた。雨の湿気が店へ入り、青鈴草の花が細かく揺れる。
「お帰りください、リヴィア様」
女は濡れた手袋をつかみ、扉を抜けた。鈴が一度鳴り、雨の中へ金髪が消える。
店内に残った客たちは、誰からともなく買い物の続きを始めた。仕立屋の娘は軟膏の包み方をもう一度尋ね、テサは銅貨を一枚多く置いていった。
クララは余分な銅貨を追いかけて返した。
午後の支度を始める前に、カウンター下の保管箱を確かめる。
七通の書簡は、赤い封蝋を上にして積んであった。どれも同じアウスター家の印章。最初の一通は二年前、最後の一通は先週の日付である。
一通目を開けなかった時には、次が来ると思わなかった。二通目からは、届いた日だけ記録して同じ箱へ入れた。捨てれば怒りになる気がして、開ければ返事を求められる気がした。
保管は、そのどちらでもない。
クララは蓋を閉めた。
フェリクスが窓辺で足を止める。
「青鈴草の鉢を、風の当たらない場所へ動かしてもいいですか」
「はい。棚の右側へお願いします。今日は水を与えないでください」
「葉は元気そうですが」
「与えすぎると、根から傷みます」
彼は鉢の底を両手で支え、クララが示した場所へ置いた。土も花もこぼさない。
雨はまだ続いている。午後の客が戸を開けられるよう、クララは濡れた床を拭き、看板を表へ向け直した。
そこに書かれているのは、青鈴草薬店と、クララ・エーレンの名だけである。
返すべき夫なら、三年前にもういなかった。




