第一話 鍵を返した夜
結婚五周年の祝宴で、クララは夫の席にだけ新しい花が置かれているのを見つけた。
白い冬薔薇に金糸を結んだ、小ぶりな飾りだった。今朝まで花器にあったのは、領地で採れた深紅の薔薇である。庭師の娘が、霜の前に残った最後の花を選んでくれたものだ。
給仕長へ尋ねると、彼は盆を抱え直した。
「子爵様から、先ほど差し替えるようにと」
「分かりました。深紅の花は玄関へ飾ってください。庭師には、私が礼を伝えます」
給仕長は返事をする前に、クララの顔を確かめた。そこへ意味を足さないまま、彼女は客席へ向かう。
十八人分の席には、それぞれ小さな違いがあった。南側の伯爵には香辛料を控えた肉料理。喉を傷めている令嬢の水には、香りの薄い薬草を一枚。先月母親を亡くした騎士の席からは、家族を祝う詩を外してある。
ギルベルトは、そうしたことを知らない。
知らなくても困らなかった。クララが覚えていたからだ。
扉が開き、アウスター子爵夫妻の名が告げられる。クララは入ってきた夫へ手を差し出した。
ギルベルトはその指先に触れるだけで、隣へ立つ。端正な横顔には、領地会議で難題を片づけた日の硬さが残っていた。
「北の水路の話は、今夜なさらないほうがよろしいかと」
「なぜだ」
「ベルナー伯爵のご子息が工事を引き受けています。祝いの席で責任を問われたと思われます」
「責任があるのは事実だ」
「明日の午前にお時間を設けました。今夜は、伯爵のお嬢様が快復されたことをお尋ねください」
ギルベルトは眉を寄せたが、反論はしなかった。こうして言葉を少し整えるだけで、彼は寡黙で誠実な当主として受け入れられる。
クララは五年間、それを愛情と呼んできた。
宴が始まると、ギルベルトは彼女の助言どおり伯爵令嬢の体調を尋ねた。伯爵の顔から緊張が消え、来月の狩猟会の話が出る。クララは給仕へ合図を送り、冷めかけた皿を替えさせた。
ベアトリスは上座から、満足そうにうなずいている。
「クララ、薬草酒を少し頂けるかしら」
「はい、お義母様。蜂蜜を控えたものをお持ちします」
ベアトリスは甘味を取りすぎると眠りが浅くなる。本人が忘れても、クララは量を覚えていた。
二品目が下げられるころ、見慣れない馬車の音がした。
扉の向こうで衣擦れが続き、執事が困惑を隠した声で来客を告げる。
「リヴィア・セルジュ嬢がお越しでございます」
客たちの会話が薄くなった。
リヴィアは王都の音楽院で名を上げた歌手で、金色の髪を肩へ流していた。冬薔薇と同じ金糸が、淡青のドレスの胸元を飾っている。
ギルベルトの席にある花を選んだのが誰か、尋ねる必要はなかった。
「お招きしたのですか、ギルベルト様」
「私が呼んだ」
夫は立ち上がり、リヴィアのために自分の隣の席を引いた。そこは祝宴を手伝った老家令の席だった。老家令は何も言わず、一つ下座へ移る。
クララは給仕へ目を向けた。料理を一人分増やすには時間が要る。だが給仕長は、小さく首を振った。
すでに用意されているらしい。
ギルベルトは杯を持った。乾杯には早い。デザートも、五周年を祝う菓子もまだ運ばれていない。
「今夜、皆に伝えたいことがある」
彼の声はよく通った。クララがいつも、話し始める前に一度だけ客の顔を見るよう勧めてきたからだ。
夫は今夜もそのとおりにした。
ただし、最後まで妻の顔は見なかった。
「クララとの婚姻を解く。正式な手続きは明朝始める。私はリヴィアと再婚するつもりだ」
銀の匙が皿へ当たり、乾いた音を立てた。
誰の手から落ちたのかは見ない。クララは、夫の前に置かれた白い冬薔薇へ視線を置いた。
五周年を祝う日付は、クララが選んだ。領地から来る客が雪に阻まれにくい日を、三か月前から調べていた。夫はその日を、別の女との再出発に選んだらしい。
「君は妻として申し分ない。だが、私に愛を教えたのはリヴィアだ」
ギルベルトは穏やかに言った。無用に傷つけないため、十分に言葉を選んだ顔をしている。
「クララは家を守った。母にも領民にも尽くした。それは認めている。ただ、私たちの間には夫婦の情がなかった」
夫婦の情がない夜にも、彼はクララの寝室を訪れた。水路工事の反対派を恐れた夜、父と同じ冷たい当主になるのではないかと語った夜、王都へ戻りたくないと明け方まで窓辺にいた夜。
クララは薬草茶を淹れ、答えが出るまで聞いていた。
翌朝になれば、ギルベルトは自分で決断した顔で会議へ向かった。
あれらは夫婦の情には数えられないという。
ならば、クララが今まで数え違えていたのだろう。
「離縁の条件は、私の書記に整えさせた。君に不利はない」
「承知いたしました」
初めてギルベルトが妻を見た。
驚きがそこにあった。問い返されると思っていたのかもしれない。あるいは泣かれ、リヴィアを責められ、自分が二人の女の間で苦しむ場面を想像していたのか。
クララには、どれも確かめる用がない。
リヴィアが席を離れ、彼女の前へ来た。香水は甘く、白い冬薔薇と同じ匂いがした。
「クララ様。私、あなたを苦しませたいわけではありません」
差し出された手の上には、アウスター家の鍵が載っている。黒鉄の軸に銀の蔦を巻いた、当主の妻が持つ鍵。宴が始まるまで、クララの腰にあったものだ。
ギルベルトが入場の折に触れたのは、彼女の指先だけではなかったらしい。
「私たちを祝ってくださいませんか。そうしてくだされば、恨みがないと皆にも分かります」
客の何人かが目を伏せる。ベアトリスは扇を閉じ、息子へ視線を送ったが、止める言葉は出てこない。
クララは鍵の銀細工を見た。
嫁いだ朝、ベアトリスが腰へ結んでくれたものだった。家のすべてを任せるという言葉に、若いクララは誇りを覚えた。倉の薬草を冬まで保たせ、使用人の子どもが熱を出せば医師を呼び、ギルベルトが怒らせた客には翌朝までに詫びの品を選ぶ。そのたび、鍵は腰で小さく鳴った。
鍵を持つとは、誰より早く扉を開け、最後に閉めることだった。
「祝福は、お引き受けできません」
リヴィアの手がわずかに下がる。
「どうしてです。ギルベルトは、あなたを愛していなかったのですよ」
「存じております。今、伺いましたから」
クララはそれだけ答えた。
宴はそこで終わらなかった。終わらせれば醜聞になると考えたのは、ギルベルトとベアトリスだった。
客へ菓子が配られ、楽師が予定どおり穏やかな曲を弾く。誰も五周年を祝う言葉を口にしないまま、甘い焼き菓子だけが減っていった。
クララは最後の客を玄関で見送った。
帰り際、ベルナー伯爵が彼女へ小声で告げる。
「水路の話は、明日でよい。娘への薬をありがとう」
礼を受け取ったのはクララだった。ギルベルトは少し離れた場所で、客の馬車が去る順を見ている。
書斎へ呼ばれたのは、夜半を過ぎてからである。
机には離縁状が二部と、屋敷の予定表が並んでいた。ベアトリスが予定表を指で押さえる。
「新しい暮らしには準備が要るでしょう。クララ、三か月だけ残ってちょうだい。リヴィアに使用人の名と領地の習慣を教えてくれれば、それでいいの」
「茶会の返事も途中だ」とギルベルトが続ける。「君が始めたことだ。先方へ迷惑をかけるべきではない」
リヴィアは長椅子に座り、鍵を膝へ置いていた。
「私も助かります。急に全部を覚えるのは難しいもの」
三人とも、離縁後のクララの時間を自分たちの予定へ入れている。
祝宴の席で胸を刺した言葉より、その予定表のほうがクララには分かりやすかった。
彼らにとって妻とは、夫に愛される女だけを指す言葉ではない。家を整え、争いを小さくし、誰かの失敗を翌日までに片づける働きも含む。愛はリヴィアへ渡し、その働きはクララへ残すつもりでいる。
クララは左手の指輪を外した。
五年を過ごした輪は、少しだけ皮膚へ跡を残している。白い小皿を机の中央へ置き、指輪を載せた。次に、リヴィアの膝にある鍵へ目を向ける。
「その鍵で、薬庫の北側は開きません。冬は錠が縮みますので、少し持ち上げて回してください」
リヴィアは安堵した顔でうなずいた。引き継ぎが始まったと受け取ったのだろう。
クララは立ち上がった。
「お伝えすることは、以上です」
「待ちなさい」とベアトリスが言う。「屋敷はどうするの」
「新しい鍵の持ち主がお決めになります」
ギルベルトが予定表から顔を上げた。
「クララ、感情で責任を捨てるな。三か月だ。その後は君の望む場所へ行けばいい」
夫は公平に条件を示したつもりでいる。三か月を与える側の口調だった。
クララは彼の目を見た。五年間で初めて、理解させるための言葉を探さなかった。
「離縁した家の妻を、三か月だけ続けることはできません」
「君がいなければ、混乱する」
「はい」
「分かっていて去るのか」
「はい」
短い返事は、驚くほど軽い。
クララは自室へ戻り、母から譲られた薬草帳と着替えを小さな鞄へ入れた。宝石箱は開けない。子爵家から贈られたものと、自分のものを今夜選り分ければ、またこの家の朝を迎えてしまう。
手元には嫁入り前の銀貨が残っている。今夜の宿と、明日の馬車には足りる。
廊下の燭台は半分消えていた。給仕長が玄関で待ち、何も尋ねず外套を差し出す。
「奥様」
その呼び名に、クララは足を止めた。
「今夜まで、よく助けてくださいました」
給仕長は外套の紐を結び、深く頭を下げる。彼女は訂正しなかった。最後の一度まで取り上げる必要はない。
玄関の花器には、深紅の薔薇が戻されている。庭師の娘が選んだ最後の花。その一輪を抜き、クララは外套の内側へ挿した。
門扉は重かった。
鍵を持たない手で押すと、冷えた鉄は少しずつ開いた。
雪の匂いがする道の先に、灯りの残る宿がある。明日どこへ向かうかは、まだ決めていない。
それでも、三か月後まで他人に書き込まれた予定表より、何もない朝のほうがよかった。
夫を返した夜、クララは初めて自分の明日を持った。




