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アイドルシグナル  作者: ぽんず
もう一度だけ
21/24

消えない声

水族館を出た頃には、空が少し赤くなり始めていた。


休日の街は人が多い。


カップル。

家族連れ。

学生。


そんな人混みの中を、俺と湊は並んで歩いていた。


「楽しかったですね」


湊が隣で笑う。


その声は本当に嬉しそうで、聞いているこっちまで少し気が抜ける。


「クラゲゾーン、神代さんめっちゃ見てましたよね」


「別に」


「絶対好きじゃないですか」


「お前ほんとうるせぇな」


そう返すと、湊が楽しそうに笑った。


休日。


ただ出かけただけ。


それだけなのに、不思議なくらい心が軽かった。


最近、こういう感覚が増えている。


ライブが楽しい。


レッスンも嫌じゃない。


湊といる時間も、前より自然になっていた。


少し前まで、全部どうでもよかったはずなのに。


「神代さん」


「何」


「次は動物園とか行きません?」


「行かねぇよ」


「えー」


湊が不満そうな声を出す。


その時だった。


「……蓮?」


足が止まる。


聞き間違えるはずがない声だった。


身体の奥が、一瞬で冷える。


ゆっくり振り返る。


人混みの向こう。


一人の女が立っていた。


長い髪。


見慣れた顔。


昔、何度も隣にいた人間。


息が止まる。


「……久しぶり」


女が少し気まずそうに笑った。


頭の奥で、昔の記憶が一気に蘇る。


デビュー前。


まだ何者でもなかった頃。


ライブ終わりに会いに来てくれていた女。


“ファン一号”だと言って笑っていた幼馴染。


でも本当は違った。


俺じゃなかった。


あいつは最初から、“アイドル”が好きだった。


有名なやつ。

人気があるやつ。

繋がれるやつ。


そのために俺を利用した。


頭の中で、昔の声が蘇る。


『紹介してよ』


『今度あの人とも会えない?』


『蓮なら出来るでしょ?』


胸の奥が気持ち悪くなる。


呼吸が浅い。


「……神代さん?」


隣で湊が小さく声をかけてくる。


でも返事ができなかった。


女がこちらへ近づく。


「テレビで見なくなったから、どうしてるのかなって思ってた」


その言葉が刺さる。


悪気なんてない顔。


だから余計にきつい。


「……別に」


やっとそれだけ返す。


声が少し低くなっていた。


女は俺の隣の湊を見る。


「今はこの子と活動してるんだ?」


その視線。


その空気。


昔と同じだ。


人じゃなく、“アイドル”を見ている目。


胃の奥が重くなる。


湊が空気を読んだのか、小さく一歩引いた。


「……神代さん、知り合いですか?」


その問いに、少しだけ間が空く。


女が笑う。


「幼馴染だよ」


その瞬間。


頭の中で何かが切れそうになる。


幼馴染。


その言葉が嫌いだった。


一番近くにいたはずなのに、一番信用できなかった人間。


「……帰る」


気づけば口から出ていた。


湊が目を丸くする。


「え?」


「悪い。今日もう帰る」


自分でも分かるくらい声が固い。


女が少し困ったように笑った。


「蓮……」


その名前の呼び方すら無理だった。


「呼ぶな」


空気が止まる。


女の顔が少し強張る。


でも、もう無理だった。


胸の奥がぐちゃぐちゃになる。


せっかく楽しかった時間が、一瞬で過去に引き戻される。


俺はそのまま踵を返した。


「神代さん!」


後ろから湊の声が聞こえる。


でも振り返れなかった。


今、誰ともまともに話せる気がしない。


人混みを抜けながら、呼吸が乱れる。


気持ち悪い。


思い出したくなかった。


もう終わったと思っていたのに。


まだ、こんな簡単に崩れる。


駅へ向かう途中、スマホが震えた。


湊からだった。


『大丈夫ですか』


数秒、画面を見る。


でも返せない。


返事を考える余裕がなかった。


結局、その日はそのまま解散になった。


家へ戻っても、水族館で笑っていた湊の顔と、最後に蘇った過去が頭の中で混ざり続けていた。

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