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アイドルシグナル  作者: ぽんず
もう一度だけ
12/24

一本

禁煙二日目。


正直、舐めていた。


少し減らすくらいなら余裕だと思っていたし、本気でやめるつもりもなかった。ただ、湊にあれだけ真っ直ぐ言われたせいで、なんとなく吸う本数を減らし始めただけだ。


なのに、身体は思った以上に正直だった。


落ち着かない。


イライラする。


意味もなく部屋の中を歩き回って、冷蔵庫を開けて、何も飲みたくなくて閉じる。ソファへ座っても数分で立ち上がる。スマホを触っても集中できない。


頭の中にあるのは、煙草のことばかりだった。


深夜二時。


俺は結局、マンションの廊下へ出ていた。


冷たい空気が肌に当たる。昼間はまだ少し暖かかったのに、夜になるとかなり冷える。薄いパーカー一枚じゃ寒いくらいだった。


壁へもたれながら、無意識にポケットを探る。


……ない。


当たり前だ。昨日、自分で捨てた。


「……吸いてぇ」


小さく呟いた声が、静かな廊下にやけに響いた。


今からコンビニへ行けばすぐ買える。たった五分歩くだけだ。一本吸えば落ち着く。こんなイライラも、頭の重さも全部消える。


なのに足が動かない。


“もっと長く歌ってほしいです”


また湊の声が浮かぶ。


「……うるせぇよ」


思わず苦笑する。


なんであいつの言葉がこんなに残るんだ。


その時、スマホが震えた。


画面を見る。


《湊》


タイミングが悪すぎる。


通知を開く。


『起きてますか?』


短いメッセージ。


俺は少し迷ってから返信した。


『寝ろ』


すぐ既読がつく。


『神代さんは?』


『寝れない』


数秒後。


『もしかしてタバコですか?』


図星だった。


俺は思わず眉をひそめる。


『なんで分かる』


『なんとなくです』


意味分からない。


でも、少しだけ笑ってしまった。


その直後。


『電話していいですか?』


……なんで。


断ろうとして、指が止まる。


結局、


『勝手にしろ』


とだけ送った。


送信して三秒後、着信。


「早ぇよ……」


呆れながら通話ボタンを押す。


『もしもし!』


耳に飛び込んできた明るい声に、思わずスマホを少し離した。


「……うるさい」


『すみません、ちょっと嬉しくて』


「何が」


『出てくれたんで』


素直すぎる返答に、少しだけ言葉が詰まる。


電話越しに聞こえる湊の声は、ライブの時より少し柔らかかった。


『吸いたいですか?』


「めちゃくちゃ」


今日は誤魔化す気になれなかった。


どうせ隠してもバレる。


『今どこいるんですか?』


「家の廊下」


『寒くないです?』


「寒い」


『なんで外いるんですか』


「煙草吸う時の癖」


そう答えると、電話の向こうで小さく笑う声がした。


『職業病みたいになってるじゃないですか』


「笑えねぇよ」


実際笑えなかった。


身体が完全に覚えている。ライブ後、酒を飲む時、考え事をする時、イライラした時。全部煙草とセットだった。


だから今、手持ち無沙汰で仕方ない。


少し沈黙が落ちる。


遠くで車の走る音だけが聞こえた。


『……俺、昔ちょっと怖かったんです』


不意に湊が言う。


いつもの明るい声じゃなかった。


「何が」


『煙草の匂い』


俺は黙る。


『昔いた家、ずっとタバコ臭かったんですよね』


ぽつりぽつりと話す声。


『怒鳴り声とか、物が割れる音とか、そういうのと一緒に覚えてて』


静かな夜のせいか、その言葉はやけに胸へ残った。


虐待。


詳しく聞いたことはない。でも、普通の家庭じゃなかったことくらいは分かる。


『だから、今でもちょっと苦手です』


「……悪かった」


自然に言葉が出た。


湊が少し驚いたように笑う。


『謝ると思わなかったです』


「俺も」


本音だった。


しばらく沈黙。


でも嫌な空気じゃない。


『でも』


湊が続ける。


『神代さんの煙は、そんなに怖くないんですよね』


「何それ」


『なんででしょう』


少し笑う声。


それから、少し照れたみたいに続けた。


『多分、神代さん優しいからです』


「は?」


反射的に聞き返す。


『いや、怖い時もありますけど』


「余計だろ」


『でもちゃんと、人のこと見てるじゃないですか』


そんなことない。


そう言い切れない自分が嫌だった。


湊は続ける。


『俺、神代さんに結構救われてるんです』


胸の奥が少しだけ痛くなる。


そういうことを、こいつは本当に真っ直ぐ言う。


計算がない。


だから刺さる。


『だから、もうちょっと自分のこと大事にしてほしいです』


冷たい風が吹く。


なのに胸の奥だけ熱かった。


俺はしばらく黙ったあと、小さく息を吐く。


「……一本だけならいいと思ってた」


『はい』


「でも、多分吸ったら戻る」


自分でも驚くくらい素直な言葉だった。


湊は少し嬉しそうに笑った。


『じゃあ今日は勝ちですね』


「だから勝ち負けじゃねぇって」


『でも吸ってないです』


返す言葉がない。


沈黙のあと、湊が静かに言う。


『神代さん』


「何」


『また大きいステージ立ちましょうね』


その言葉に、胸が大きく揺れる。


昔なら即否定していた。


夢なんて見ない。


期待なんてしない。


そうやって生きてきたはずなのに。


今は完全には否定できなかった。


「……知らね」


いつもの返事。


でも、声は少しだけ弱かった。


湊は電話越しに小さく笑う。


『最近、その返事ちょっと優しくなりましたよね』


「気のせい」


『ふふ』


その笑い声を聞きながら、俺は廊下の天井を見上げた。


煙のない夜は、まだ落ち着かない。


でも。


悪くないかもしれないと、少しだけ思ってしまった。

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