一本
禁煙二日目。
正直、舐めていた。
少し減らすくらいなら余裕だと思っていたし、本気でやめるつもりもなかった。ただ、湊にあれだけ真っ直ぐ言われたせいで、なんとなく吸う本数を減らし始めただけだ。
なのに、身体は思った以上に正直だった。
落ち着かない。
イライラする。
意味もなく部屋の中を歩き回って、冷蔵庫を開けて、何も飲みたくなくて閉じる。ソファへ座っても数分で立ち上がる。スマホを触っても集中できない。
頭の中にあるのは、煙草のことばかりだった。
深夜二時。
俺は結局、マンションの廊下へ出ていた。
冷たい空気が肌に当たる。昼間はまだ少し暖かかったのに、夜になるとかなり冷える。薄いパーカー一枚じゃ寒いくらいだった。
壁へもたれながら、無意識にポケットを探る。
……ない。
当たり前だ。昨日、自分で捨てた。
「……吸いてぇ」
小さく呟いた声が、静かな廊下にやけに響いた。
今からコンビニへ行けばすぐ買える。たった五分歩くだけだ。一本吸えば落ち着く。こんなイライラも、頭の重さも全部消える。
なのに足が動かない。
“もっと長く歌ってほしいです”
また湊の声が浮かぶ。
「……うるせぇよ」
思わず苦笑する。
なんであいつの言葉がこんなに残るんだ。
その時、スマホが震えた。
画面を見る。
《湊》
タイミングが悪すぎる。
通知を開く。
『起きてますか?』
短いメッセージ。
俺は少し迷ってから返信した。
『寝ろ』
すぐ既読がつく。
『神代さんは?』
『寝れない』
数秒後。
『もしかしてタバコですか?』
図星だった。
俺は思わず眉をひそめる。
『なんで分かる』
『なんとなくです』
意味分からない。
でも、少しだけ笑ってしまった。
その直後。
『電話していいですか?』
……なんで。
断ろうとして、指が止まる。
結局、
『勝手にしろ』
とだけ送った。
送信して三秒後、着信。
「早ぇよ……」
呆れながら通話ボタンを押す。
『もしもし!』
耳に飛び込んできた明るい声に、思わずスマホを少し離した。
「……うるさい」
『すみません、ちょっと嬉しくて』
「何が」
『出てくれたんで』
素直すぎる返答に、少しだけ言葉が詰まる。
電話越しに聞こえる湊の声は、ライブの時より少し柔らかかった。
『吸いたいですか?』
「めちゃくちゃ」
今日は誤魔化す気になれなかった。
どうせ隠してもバレる。
『今どこいるんですか?』
「家の廊下」
『寒くないです?』
「寒い」
『なんで外いるんですか』
「煙草吸う時の癖」
そう答えると、電話の向こうで小さく笑う声がした。
『職業病みたいになってるじゃないですか』
「笑えねぇよ」
実際笑えなかった。
身体が完全に覚えている。ライブ後、酒を飲む時、考え事をする時、イライラした時。全部煙草とセットだった。
だから今、手持ち無沙汰で仕方ない。
少し沈黙が落ちる。
遠くで車の走る音だけが聞こえた。
『……俺、昔ちょっと怖かったんです』
不意に湊が言う。
いつもの明るい声じゃなかった。
「何が」
『煙草の匂い』
俺は黙る。
『昔いた家、ずっとタバコ臭かったんですよね』
ぽつりぽつりと話す声。
『怒鳴り声とか、物が割れる音とか、そういうのと一緒に覚えてて』
静かな夜のせいか、その言葉はやけに胸へ残った。
虐待。
詳しく聞いたことはない。でも、普通の家庭じゃなかったことくらいは分かる。
『だから、今でもちょっと苦手です』
「……悪かった」
自然に言葉が出た。
湊が少し驚いたように笑う。
『謝ると思わなかったです』
「俺も」
本音だった。
しばらく沈黙。
でも嫌な空気じゃない。
『でも』
湊が続ける。
『神代さんの煙は、そんなに怖くないんですよね』
「何それ」
『なんででしょう』
少し笑う声。
それから、少し照れたみたいに続けた。
『多分、神代さん優しいからです』
「は?」
反射的に聞き返す。
『いや、怖い時もありますけど』
「余計だろ」
『でもちゃんと、人のこと見てるじゃないですか』
そんなことない。
そう言い切れない自分が嫌だった。
湊は続ける。
『俺、神代さんに結構救われてるんです』
胸の奥が少しだけ痛くなる。
そういうことを、こいつは本当に真っ直ぐ言う。
計算がない。
だから刺さる。
『だから、もうちょっと自分のこと大事にしてほしいです』
冷たい風が吹く。
なのに胸の奥だけ熱かった。
俺はしばらく黙ったあと、小さく息を吐く。
「……一本だけならいいと思ってた」
『はい』
「でも、多分吸ったら戻る」
自分でも驚くくらい素直な言葉だった。
湊は少し嬉しそうに笑った。
『じゃあ今日は勝ちですね』
「だから勝ち負けじゃねぇって」
『でも吸ってないです』
返す言葉がない。
沈黙のあと、湊が静かに言う。
『神代さん』
「何」
『また大きいステージ立ちましょうね』
その言葉に、胸が大きく揺れる。
昔なら即否定していた。
夢なんて見ない。
期待なんてしない。
そうやって生きてきたはずなのに。
今は完全には否定できなかった。
「……知らね」
いつもの返事。
でも、声は少しだけ弱かった。
湊は電話越しに小さく笑う。
『最近、その返事ちょっと優しくなりましたよね』
「気のせい」
『ふふ』
その笑い声を聞きながら、俺は廊下の天井を見上げた。
煙のない夜は、まだ落ち着かない。
でも。
悪くないかもしれないと、少しだけ思ってしまった。




