名前のない帰り道
ライブ終わりの外は、昼間の雨が嘘みたいに静かだった。
濡れたアスファルトが街灯を反射して、夜の街をぼんやり光らせている。
俺はライブハウス裏の自販機にもたれながら、冷たい缶コーヒーを開けた。
禁煙四日目。
ここまで来ると逆に身体がおかしくなる。
煙草を吸わない生活に少し慣れてきたはずなのに、ふとした瞬間に猛烈に吸いたくなる。ライブ後なんか特に最悪だった。
達成感。
疲労感。
高揚感。
その全部と煙草が結びついている。
だから今も、指先が無意識にポケットを探ってしまう。
「まだ吸ってないんですか?」
後ろから声。
振り返ると、湊がコンビニ袋をぶら下げながら立っていた。
「……急に出てくんな」
「神代さんが怖い顔してたんで」
「元からだろ」
「今日は特にです」
湊は笑いながら隣へ来る。
それから俺の缶コーヒーを見て、少し目を細めた。
「最近コーヒー増えましたよね」
「口寂しいから」
「禁煙あるあるだ」
知ったような口をきく。
俺は缶を傾けながら、ぼんやりライブハウスの入口を見る。
今日のライブはかなり人が多かった。
物販も途切れなかった。
特に湊。
初見の女が何人も列へ並んでいた。
「……お前今日、新規かなり増えてたな」
ぽつりと言う。
湊がきょとんとした顔をした。
「え、そうでした?」
「気づいてねぇのかよ」
「いや、でも神代さんの方が歓声大きかったですよ?」
「はいはい」
適当に流す。
実際、歓声が増えてる感覚はあった。
名前を呼ばれる回数も。
でも、それが少し怖かった。
期待される感覚を、まだ完全に信じられない。
「神代さん」
湊が急に真面目な声を出す。
「今日の最後の曲、やばかったです」
「何が」
「めっちゃ感情乗ってました」
胸が少しだけざわつく。
ライブ中のことを思い出す。
最後のサビ。
客席を見た瞬間、ペンライトが揺れていた。
自分たちの名前を呼ぶ声が聞こえた。
あの瞬間、昔の感覚が少し戻った気がした。
「……別に普通だろ」
誤魔化すように言う。
湊は首を横に振った。
「違います」
真っ直ぐな目。
逃げ場がない。
「なんか、“届けよう”って感じしました」
その言葉に、思わず黙る。
昔はずっとそうだった。
誰かへ届くように歌っていた。
でも、裏切られてからは変わった。
どうせ信じても無駄だと思った。
だから最近は、“上手く歌う”ことばかり考えていた気がする。
「……お前さ」
「はい?」
「ほんと変なとこ見てるよな」
そう言うと、湊は少し笑った。
「神代さんばっか見てるんで」
さらっと言うな。
本当に。
俺は視線を逸らしながら缶コーヒーを飲み干す。
その時、ライブハウスの入口から数人のファンが出てきた。
「あっ……!」
若い女の子がこっちを見て立ち止まる。
湊がすぐ笑顔になる。
「ありがとうございました!」
その一言だけで、女の子の顔が一気に明るくなる。
「今日めっちゃ楽しかったです!」
「ほんとですか!? また来てください!」
楽しそうに話す湊の横で、俺は軽く頭を下げる。
すると、その女の子が少し緊張した顔で俺を見た。
「あの……」
「?」
「神代さんの歌、すごく好きです」
一瞬、言葉が止まる。
昔なら慣れていた。
毎日のように言われていた言葉。
でも今は違う。
地下の小さなライブハウス。
数十人の客。
その中の一人が、ちゃんと俺を見てくれていた。
「……ありがと」
自然に声が出た。
女の子は少し驚いたあと、嬉しそうに笑った。
「また行きます!」
去っていく背中を見送りながら、胸の奥が少し熱くなる。
隣を見ると、湊がにやにやしていた。
「……何」
「今ちゃんと笑いましたね」
「笑ってねぇ」
「いや絶対笑いました!」
うるさい。
でも否定しきれなかった。
湊は楽しそうに笑いながら歩き出す。
「帰りましょう、神代さん」
その背中を見ながら、俺は小さく息を吐く。
煙は出ない。
でも不思議と、前みたいな物足りなさは少し減っていた。




