玄関
朝、玄関で靴を履きながら、優子は左手の指輪を外した。
夫が前日の夜に出張から戻ってきていた。今朝、リビングのソファで寝息を立てていた。優子は音を立てずに支度を済ませた。
指輪は、玄関の靴箱の上に置いた。さりげない場所だった。誰の目にも留まらない場所、というつもりだった。だが、それは置いた優子自身の感覚で、夫がどう感じるかは別だった。優子は、それ以上考えなかった。
インターフォンが鳴った。
「お届け物です、西山さん」
聞き慣れた苗字だった。優子は、一拍、反応しなかった。
「西山さん?」
優子はモニタを見て、応答ボタンを押した。
玄関で受け取った箱は、夫宛のものだった。靴箱の上、指輪の隣に置いた。
外に出た。空が白かった。雪はまだ降っていない。
六時を過ぎ、優子はいつもの店のドアを押した。
ドアベルが鳴った。
店主が頷いた。優子も頷いた。
女性はすでにいた。本は、まだ閉じたまま、テーブルの隅にあった。先週来なかったことには、触れなかった。
優子は向かいに座った。
「最近、寒いね」
女性が言った。
「うん」
優子は、女性のほうへ視線を一瞬向けた。それから、また下げた。
会話は、それだけだった。
店主が二人の前にコーヒーを置いた。優子のカップは、白地に青の線のものだった。
優子は、カップに左手を伸ばした。指輪のない指が、カップの取手に触れた。冷たくも、温かくもなかった。ただ、指が一本軽くなったような、そういう感触だった。
カップの取手の向きを、わずかに右に動かした。
女性は何かを言いかけた。口を開きかけて、また閉じた。
それきり、女性は何も言わなかった。
優子も何も聞かなかった。
暖房の唸り音が、店内に低く響いていた。
優子は自分のカップを口に運んだ。コーヒーを飲んだあと、カップの縁を見た。薄く、口紅がついていた。今朝、あまり丁寧には塗っていなかったはずだった。だが、ついていた。
優子はそれをすぐに、指で拭いた。女性は、見ていないはずだった。
時間が経った。
女性が立ち上がった。
「じゃあ」
優子は頷いた。
女性が出ていったあと、優子は自分の左手を見た。指輪のない指が、白かった。
会計をして、店を出た。
帰り道で、ふと、玄関の靴箱の上に指輪を置いてきたことを思い出した。
家に帰る前に、付けるのを忘れないようにしよう、と思った。
家に戻って、玄関で指輪を付け直した。
薬指の付け根に、円い跡が、薄く残っていた。




