空席
12月の初旬。雨が降りそうで降らない日だった。
六時を過ぎ、優子はドアを押した。ドアベルが鳴った。
店主が頷いた。優子も頷いた。
奥のテーブル席は、空いていた。
優子は、その席に座った。
向かいの椅子も、空いていた。
しばらく待った。ドアベルが鳴ることはなかった。
店主が黙ってコーヒーを淹れた。優子の前に置かれたカップは、白地に青い線の入ったものだった。
優子はカップの取手の向きを、わずかに右に動かした。
砂糖入れの欠けが、いつもより目立って見えた。光の加減だろうか。あるいは、欠けが少し広がっているのだろうか。
ミルクピッチャーの中に、白い液体が溜まっている。先週は満たされていただろうか。
今朝、夫は何時に出かけただろう。優子はうまく思い出せなかった。コーヒーを淹れた音と、新聞を畳む音と、玄関のドアが閉まる音と。あの順番で並んでいたのか、別の順番だったか。
優子は視線を、向かいの空いた椅子に戻した。
カウンターの男性が一人。先週も来ていた人だ、と思う。窓際のテーブルに高齢の女性。今日は本を持っていない。ただ、コーヒーを飲んでいる。
時計の秒針の音が、いつもより大きく聞こえた。
ドアベルが鳴った。
優子は反射的に振り返った。だが、入ってきたのは、見知らぬ男性だった。スーツに黒い鞄。男性はカウンター席に座って、何かを注文した。
優子は窓の外を見た。雨は降っていなかった。だが、空が低かった。
コーヒーを口に運んだ。熱は、すでに半分ほど抜けていた。
女性は来なかった。
優子は、いつもより少し長く座っていた。三十分が経ち、四十分が経った。一時間に近づいた頃、優子は会計をして、立ち上がった。
店主は、優子のほうを一度だけ見た。それから、いつもの動作に戻った。何も聞かれなかった。
外に出ると、雨はまだ降っていなかった。だが、空気が湿っていた。靴底の下で、歩道のタイルがわずかに濡れていた。
優子は、どこに帰るべきか、一瞬、分からなくなった。
それから、いつもの帰り道を、歩き始めた。




