いつもの
水曜日。優子は時間を確かめてから家を出た。六時を少し回るくらいに着くはずだった。
今夜も、夕食の準備はいらなかった。
通りに出ると、街灯の下、ケヤキの葉が一段と乾いて見えた。一週間のあいだに、何枚かは落ちているのかもしれない。
店のドアを押した。先週ほど、軽くは感じなかった。
ドアベルが鳴った。
「いらっしゃい」
店主の声がした。短く、抑えた声だった。
奥のテーブル席に、先週の女性が座っていた。
視線が合った。女性が手を上げた。指先まで伸びた、けれど短い動きだった。
優子は迷わず、向かいの席に座った。
「アスカ、何にする?」
女性が言った。
「ホットで」
優子は答えた。それから、店主のほうを向いて、もう一度「ホットで」と繰り返した。店主は黙ってカップを取り出した。
女性は本を閉じて、鞄に戻した。
「先週、ありがとう」
女性は言った。
優子は黙っていた。礼を言われたという事実だけが、テーブルの上に残った。
「私、火曜と金曜は残業で。水曜は、定時で出られるから、こっちに寄れる」
「そうなんだ」
「アスカは?」
「水曜は、夫が遅くて」
「いいじゃん」
会話はそれで途切れた。
店主がコーヒーを運んできた。優子の前に置かれたカップは、白地に青の線が入っていた。先週は無地のクリーム色だった。
カップの取手の向きを、わずかに右に動かした。先週と同じ動作だった。
女性も自分のカップの取手を右に動かした。
「砂糖、やっぱり入れない?」
「入れない」
「私も」
窓の外、ケヤキの葉が一枚だけ落ちるのが見えた。
「仕事、何してるの?」
女性が聞いた。
優子は一拍置いた。指先が、カップの取手をなぞった。それから、離した。
「今は、休んでる」
それは本当ではなかった。
女性は頷いた。それ以上、聞かなかった。
「私はね、最近異動になって。前と違うチームで」
「そうなんだ」
女性は本に視線を落とした。だが、開かなかった。
「いまいち、合わないんだよね」
「そうなんだ」
時計の音が聞こえた。先週、最後の頃に気づいた音だった。今日は、最初から聞こえている。
三十分が経った。女性が立ち上がった。
「来週も?」
「うん」
優子は答えた。
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翌週、優子は同じ時間に家を出た。通りのケヤキの葉が、また少し落ちていた。
その次の週、店主は「いらっしゃい」と言いかけて、頷きに変えた。
その次の週、優子は注文を口に出さなかった。店主が黙ってカップを取り出した。
女性は、いつも奥のテーブル席にいた。手を上げる動作はなくなり、目元だけが動くようになっていた。
何度目かの水曜日だった。
優子はドアを押した。ドアベルが鳴った。店主が顔を上げた。「いらっしゃい」とは言わなかった。わずかに頷いた。優子も頷き返した。
奥のテーブル席に、女性は座っていた。目元がわずかに動いた。
優子は向かいに座った。
注文はしなかった。店主はカウンターの内側で、黙ってカップを取り出した。コーヒー豆を挽く音、湯を沸かす音。
「最近、寒いね」
しばらくして、女性が言った。
「うん」
優子は答えた。
店主が優子の前にコーヒーを置いた。白地に青の線のカップだった。
優子は取手の向きを、わずかに右に動かした。気がつくと、もう動かしていた。
砂糖入れがテーブルの隅にあった。白い陶器で、縁が少し欠けていた。前から欠けていた、ということに、優子は今日初めて気づいた。
砂糖を入れずに、コーヒーを口に運んだ。熱かった。
女性は窓の外を見ていた。優子も窓の外を見た。街灯の光に、ケヤキの葉が、もう半分以上落ちているのが見えた。
時計の秒針の音が、低いラジオのニュースに混じって聞こえる。
二人の視線が一度合った。それから、また、別々の場所を見た。
女性が立ち上がった。
「じゃあ」
優子は頷いた。
ドアベルが鳴った。
優子はそのまま座っていた。カップの中に、まだ少しコーヒーが残っていた。熱は、ほとんど抜けていた。




