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アスカ  作者: hitoshi_tanabe
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4/21

水曜日

朝食のテーブルで、夫は新聞を畳んでいた。


優子は向かいに座って、トーストを食べていた。


夫がカップを口に運んだ。コーヒーを一口飲んで、また新聞に視線を戻した。


優子は、何か言おうとして、やめた。何を言おうとしたのか、自分でも分からなかった。


「今日も遅いから」


夫は言った。新聞から目を上げないままだった。


「うん、わかった」


優子は答えた。


夫は新聞を畳み終え、立ち上がった。鞄を取って、玄関へ向かった。


ドアが閉まる音がした。


リビングのテーブルに、夫のコーヒーカップが残っていた。半分ほど残ったコーヒーが、冷めていた。


---


夕方、優子は家を出た。


水曜日だった。今夜は、夕食の準備をしなくていい。そう思うと、足取りが、少しだけ軽くなった。


特に行く場所はなかった。


通りに出ると、街灯がもう点り始めていた。十月の夜が、まだ少し早かった。


商店街を抜け、いつもの通りに入った。


通ったことのある道だった。だが、ここで足を止めたのは、今日が初めてだった。


ガラスの向こうに、店内灯が点っていた。


優子はドアを押した。


思ったより、軽かった。


ドアベルが鳴った。


「いらっしゃい」


店主の声がした。


優子は頷いた。


奥のテーブル席が空いていた。優子はその席に座った。


「ホットで」


声は、思ったより小さかった。


店主は黙ってコーヒーを淹れ始めた。


コーヒーが運ばれてきた。優子はカップの取手の向きをわずかに右へ動かし、一口飲んだ。


奥のテーブル席だった。窓の外には街路樹が見えた。街灯の明かりに、葉の縁が乾いて見えた。ケヤキだろうか。十月の夜、店内に客は数人だった。カウンターに男性が一人。窓際のテーブルに高齢の女性が一人。どちらも本を読んでいた。


店主の手元から、ドリッパーから雫の落ちる音が聞こえた。それから、コーヒー豆を挽く小さな機械音。


時間が経った。


コーヒーは、半分ほど残っていた。冷め切る前に飲み終わるべきか、ゆっくり引き延ばすべきか、決められないまま、三十分が経っていた。


ドアベルが鳴った。


入ってきたのは女性だった。優子からは斜め後ろの位置だった。靴音がカウンターの方へ進み、それから止まった。視界の隅で、影が振り返るのが分かった。


「アスカ?」


声は明るかった。優子は反射的に振り向いた。


立っていたのは、知らない女性だった。年は二十代後半くらいだろうか。ベージュのコートを腕にかけ、黒い鞄を肩にかけている。視線が合った。


一拍、女性の目が止まった。


口元がわずかに動こうとした。違う、と言いかけた、という気がした。


優子は、頷いていた。


なぜそうしたのか、分からなかった。ただ、首がそう動いた。


女性は何かを察したように、わずかに口の端を上げた。微笑というほど深いものではなかった。彼女は鞄を下ろし、優子の向かいの椅子を引いた。


「いつもここに来てるんだね」


否定する隙がなかった。優子は曖昧に頷いた。


女性は店主に向かって「私もホットで」と言った。それからコートを背もたれにかけた。コートの裾から、鞄に入れた本の背表紙が覗いていた。漢字の縦棒が並んでいるのが分かったが、タイトルは読めなかった。


優子は自分のカップに視線を落とした。指先がカップの取手に触れたが、持ち上げなかった。


店主が女性の前にコーヒーを置いた。女性は「ありがとう」と小さく言って、カップの取手の向きをわずかに右へ動かした。優子と同じ向きだった。


「外、寒くなったね」


女性は窓の外を見ながら言った。


「そうですね」


優子は答えた。声が、自分のものではないように聞こえた。今日、誰かと話したのは初めてだったかもしれない。


「コーヒー、いつも何にしてるの」


「ホット」


「砂糖は」


「入れない」


「私も」


会話は途切れた。優子は窓の外を見た。葉の縁が、さっきよりも少し乾いて見えた。


女性は鞄から本を取り出して開いた。優子は驚かなかった。彼女がそこで本を読み始めるのは、自然な動きに思えた。


時計の音が聞こえた。柱のどこかに時計があったのだろうか。今まで気づかなかった。秒針の音が、店内のラジオの音に混じって聞こえる。低い男の声でニュースを読んでいる。


三十分か、四十分が経った。女性が本を閉じた。背表紙の角度が変わった。


「そろそろ」


女性は言って、立ち上がりながらコートを羽織った。


「来週もまたここに?」


主語のない言い方だった。誰の口から出たのか、優子の中でも曖昧だった。自分が言ったのかもしれないし、女性が言ったのかもしれない。優子は頷いた。


女性は会計を済ませて、ドアベルを鳴らして出ていった。


優子はそのまま座っていた。カップに残ったコーヒーは、もう完全に冷えていた。窓の外、街灯の光が街路樹の輪郭を白く滲ませていた。


ケヤキだろうか。やはり分からないままだった。


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