沙織
水曜日の十七時を過ぎていた。沙織は編集部の自分のデスクで、ゲラのページに目を通していた。
午後の校了が一段落したところだった。来週の予定を、頭の中で並べ替えていた。
「沙織さん、お疲れさま」
隣の島から、先輩編集者が声をかけた。
沙織は、一拍置いてから顔を上げた。
「お疲れさまです」
答えた声は、自分のものとして自然だった。
パソコンの電源を落とし、椅子の背にかけたコートを羽織った。首から下げたネックストラップが、コートの襟元に隠れた。社員証は、そのままぶら下がっていた。
エレベーターを降り、通用口を抜けて、街路樹の下を歩いた。
十月の夕方は、もう暗くなりかけていた。街灯が一つ、一つ、点り始めていた。
駅まで歩き、電車に乗った。三駅で降りた。
商店街を抜けて、いつもの通りに入った。
ドアを押した。ドアベルが鳴った。
店主が顔を上げて、頷いた。沙織も頷いた。
カウンター席に座った。コートを背もたれにかけた。鞄から本を取り出し、開いた。
「いつもの」
沙織は短く言った。
店主は黙ってコーヒーを淹れ始めた。コーヒー豆を挽く音、湯を沸かす音。沙織はそれを背景に、本のページに目を落とした。
時計の秒針の音が、ラジオの低い男の声に混じって聞こえた。
コーヒーが出てきた。沙織はカップの取手の向きを、わずかに右に動かした。
店内に客は数人だった。奥のテーブル席は、今日は空いていた。窓際のテーブルに高齢の女性が一人。本を読んでいた。
沙織は本に視線を戻した。
同じ行を、二度、目で追った。一度ページを戻して、もう一度、上から読んだ。
鞄の中で、スマートフォンが振動した。
沙織は鞄を膝に引き寄せ、画面に目を落とした。表示されている名前を、しばらく、見ていた。
それから、スマートフォンを鞄の奥に押し込んだ。指の側面で、もう一度、奥へ。
振動が、鞄の内側で続いた。やがて止まった。
ページをめくる音が、いつもより少なかった。
---
時間が経った。
沙織は本を閉じて鞄に入れた。コーヒーカップの底に、最後の一口が残っていた。
会計を済ませて、店を出た。ドアベルが鳴った。
夜の住宅街を、沙織は歩いた。コンビニの明かりが歩道に落ちていた。沙織はそこに寄らず、通り過ぎた。
アパートの玄関を開けて、靴を脱いだ。電気をつけた。台所の流しに、朝のコーヒーカップがそのままになっていた。
沙織はコートを脱がずに、しばらくそこに立っていた。
それから、コートを脱いで、椅子の背にかけた。社員証のついたストラップが、襟元から垂れた。
冷蔵庫を開けた。中は、ほとんど何もなかった。
ドアを閉めた。流しのカップは、そのままだった。
電気を消した。




