優子
「優子」
朝、リビングで夫の声がした。
優子は台所で皿を洗っていた。手が止まった。
水道の蛇口は、まだ開いていた。冷たい水が、シンクの底を流れる音だけがしていた。
一拍。
「はい」
優子は答えた。声は、思ったより小さかった。
「もう出るから、鞄取って」
「うん」
優子は手を拭き、玄関に向かった。夫の鞄を持ち上げて、リビングに運んだ。夫は新聞を畳んで立ち上がるところだった。
「ありがとう」
夫は鞄を受け取って、玄関へ向かった。
「いってらっしゃい」
優子は言った。
ドアが閉まる音がした。
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健康診断の予約日だった。
朝食を抜いてあった。検査までは水も飲めない、と前日の留守録に看護師の声が残っていた。
優子は家を出た。バスで二駅、病院の前で降りた。
受付に保険証を出した。窓口の女性が画面を見て、「西山さんですね」と言った。夫の苗字だった。
優子は頷いた。問診票を渡された。
待合室の椅子は、薄い灰色のビニール製だった。優子は左から二番目に座り、膝の上にバインダーを置いた。ボールペンが、紐で括り付けられていた。
問診票には、いくつかの欄があった。
性別、年齢、身長、体重。既往歴、家族歴。喫煙、飲酒。
優子はチェックを入れていった。
最後のページに、続柄欄があった。
「世帯主との続柄:( )」
優子はペンを持ったまま、しばらくその欄を見ていた。
五年前の結婚式の朝、ヘアメイクの女性が「西山の奥様、こちらへどうぞ」と呼んだ。優子は一拍、反応しなかった。一拍だけだった。
もっと前、夫は「優子」と呼んでいた。さらにもっと前、「優子さん」と呼んでいた頃もあった。順番は、すぐには思い出せなかった。
「妻」、と書いた。筆圧が、いつもより少し強かった。
そのあと、もう一つ欄があった。「妊娠歴:( 回 )」
「0」と書いた。
ボールペンの先が、紙の上で止まっていた。
「西山さん」
呼ばれた声がした。優子は反応しなかった。
「西山さん、診察室にどうぞ」
二度目に、優子は気づいた。立ち上がるのが、一拍、遅れた。
診察は短かった。血圧、聴診、触診。視力検査、聴力検査。レントゲン。
会計の窓口で、また「西山さん」と呼ばれた。今度は、すぐに反応した。
ガラスのドアを抜けて、外に出た。
十月の風が、まだ穏やかだった。
正午過ぎの光が、駐車場のアスファルトに長く差していた。
優子はバスを待たずに、歩き始めた。




