表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アスカ  作者: hitoshi_tanabe
2/4

優子

優子(ゆうこ)


朝、リビングで夫の声がした。


優子は台所で皿を洗っていた。手が止まった。


水道の蛇口は、まだ開いていた。冷たい水が、シンクの底を流れる音だけがしていた。


一拍。


「はい」


優子は答えた。声は、思ったより小さかった。


「もう出るから、鞄取って」


「うん」


優子は手を拭き、玄関に向かった。夫の鞄を持ち上げて、リビングに運んだ。夫は新聞を畳んで立ち上がるところだった。


「ありがとう」


夫は鞄を受け取って、玄関へ向かった。


「いってらっしゃい」


優子は言った。


ドアが閉まる音がした。


---


健康診断の予約日だった。


朝食を抜いてあった。検査までは水も飲めない、と前日の留守録に看護師の声が残っていた。


優子は家を出た。バスで二駅、病院の前で降りた。


受付に保険証を出した。窓口の女性が画面を見て、「西山さんですね」と言った。夫の苗字だった。


優子は頷いた。問診票を渡された。


待合室の椅子は、薄い灰色のビニール製だった。優子は左から二番目に座り、膝の上にバインダーを置いた。ボールペンが、紐で括り付けられていた。


問診票には、いくつかの欄があった。


性別、年齢、身長、体重。既往歴、家族歴。喫煙、飲酒。

優子はチェックを入れていった。


最後のページに、続柄欄があった。


「世帯主との続柄:(    )」


優子はペンを持ったまま、しばらくその欄を見ていた。


五年前の結婚式の朝、ヘアメイクの女性が「西山の奥様、こちらへどうぞ」と呼んだ。優子は一拍、反応しなかった。一拍だけだった。


もっと前、夫は「優子」と呼んでいた。さらにもっと前、「優子さん」と呼んでいた頃もあった。順番は、すぐには思い出せなかった。


「妻」、と書いた。筆圧が、いつもより少し強かった。


そのあと、もう一つ欄があった。「妊娠歴:(   回 )」


「0」と書いた。


ボールペンの先が、紙の上で止まっていた。


「西山さん」


呼ばれた声がした。優子は反応しなかった。


「西山さん、診察室にどうぞ」


二度目に、優子は気づいた。立ち上がるのが、一拍、遅れた。


診察は短かった。血圧、聴診、触診。視力検査、聴力検査。レントゲン。


会計の窓口で、また「西山さん」と呼ばれた。今度は、すぐに反応した。


ガラスのドアを抜けて、外に出た。


十月の風が、まだ穏やかだった。

正午過ぎの光が、駐車場のアスファルトに長く差していた。


優子はバスを待たずに、歩き始めた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ