夏
7月。夕方、まだ熱気の残るアスファルトに、西日が低く差していた。
ケヤキの葉は、深い緑に茂っていた。
優子はドアを押した。ドアベルが鳴った。冷房の唸りが、店内に低く響いていた。
店主が頷いた。優子も頷いた。
奥のテーブル席は、空いていた。沙織は、まだ来ていなかった。
優子は店内を一度、見渡した。
そして、奥のテーブル席ではなく、入口に近い席に座った。
なぜそうしたのか、自分でも分からなかった。だが、そこに座ることが、今日は自然に思えた。テーブル一つ分、奥のいつもの席まで距離があった。
その席に座ると、店内の見え方が違った。カウンターの方向、奥のテーブル席、窓のほうの席。すべて、いつもと違う角度から見えた。
時間が経った。
ドアベルが鳴った。
沙織が入ってきた。視線が合った。一拍。沙織は、優子の席が変わっていることに気づいた、ような顔をした。
だが、何も言わなかった。
ただ、優子の向かいに座った。
「アスカ」
沙織は呼んだ。
「うん」
優子は答えた。
店主が二人の前にコーヒーを置いた。今日のカップは、また白地に青の線のものだった。釉薬の剥げが、いつもの位置にあった。優子は取手の向きを直した。
会話は、ほとんどなかった。
「暑いね」
「うん」
「冷房、効いてるけど」
「うん」
それだけだった。
長い沈黙があった。
「私、アスカじゃないんだよ」
優子は言った。
沙織は本のページを閉じた。
「そうだよね、ごめん」
沙織は答えた。
「でも、いい」
優子は言った。
二人とも、しばらく、何も言わなかった。
沙織は、また本を開いた。優子はカップを口に運んだ。コーヒーは、もう熱くも冷たくもなかった。
外を、自転車が通る音が聞こえた。
「冷房、強くない?」
沙織が言った。
「ううん」
優子は答えた。
それだけだった。
何も変わっていない、と優子は思った。
時計の音が聞こえた。冷房の唸り、外を行き交う車の音、それから、外の蝉の声。それぞれが、はっきりと分かれて聞こえた。
沙織が本のページをめくった。優子は窓の外を見た。アスファルトに、西日が長く影を落としていた。
「梅雨、長かったね」
優子は言った。
「うん。今年は」
沙織が答えた。
「明日も暑いって」
「らしいね」
それだけだった。だが、それだけが、いつもの会話だった。
沙織はもう一度、ページをめくった。優子は自分のカップを見た。釉薬の剥げが、今日もいつもの位置にあった。指先で、そっとなぞった。
しばらくして、沙織がコーヒーを飲み終えた。
「じゃあ」
沙織は言った。
優子も会計をしようと立ち上がった。レジで札を出した。動きはなめらかだった。
会計の途中、優子は店内をいつもよりわずかに長く見渡した。カウンター、奥のテーブル、窓のほうの席、入口に近い席。
店主と、一瞬、視線が合った。
店主は、わずかに目を伏せた。
優子は店を出た。
外、夏の夕方の光が、まだ高く残っていた。
沙織は、入口の前で待っていた。並んで歩く、というふうではなかった。ただ、そこにいた。
二人とも、しばらく無言だった。
「またね」とは、沙織は言わなかった。
優子も言わなかった。
ただ、頷いた。
沙織も頷いた。
それから、二人は別々の方向に歩き出した。
外の空気は、まだ夏の温度を保っていた。




