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アスカ  作者: hitoshi_tanabe
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22/23

夏

7月。夕方、まだ熱気の残るアスファルトに、西日が低く差していた。


ケヤキの葉は、深い緑に茂っていた。


優子はドアを押した。ドアベルが鳴った。冷房の唸りが、店内に低く響いていた。


店主が頷いた。優子も頷いた。


奥のテーブル席は、空いていた。沙織は、まだ来ていなかった。


優子は店内を一度、見渡した。


そして、奥のテーブル席ではなく、入口に近い席に座った。


なぜそうしたのか、自分でも分からなかった。だが、そこに座ることが、今日は自然に思えた。テーブル一つ分、奥のいつもの席まで距離があった。


その席に座ると、店内の見え方が違った。カウンターの方向、奥のテーブル席、窓のほうの席。すべて、いつもと違う角度から見えた。


時間が経った。


ドアベルが鳴った。


沙織が入ってきた。視線が合った。一拍。沙織は、優子の席が変わっていることに気づいた、ような顔をした。


だが、何も言わなかった。


ただ、優子の向かいに座った。


「アスカ」


沙織は呼んだ。


「うん」


優子は答えた。


店主が二人の前にコーヒーを置いた。今日のカップは、また白地に青の線のものだった。釉薬の剥げが、いつもの位置にあった。優子は取手の向きを直した。


会話は、ほとんどなかった。


「暑いね」


「うん」


「冷房、効いてるけど」


「うん」


それだけだった。


長い沈黙があった。


「私、アスカじゃないんだよ」


優子は言った。


沙織は本のページを閉じた。


「そうだよね、ごめん」


沙織は答えた。


「でも、いい」


優子は言った。


二人とも、しばらく、何も言わなかった。


沙織は、また本を開いた。優子はカップを口に運んだ。コーヒーは、もう熱くも冷たくもなかった。


外を、自転車が通る音が聞こえた。


「冷房、強くない?」


沙織が言った。


「ううん」


優子は答えた。


それだけだった。


何も変わっていない、と優子は思った。


時計の音が聞こえた。冷房の唸り、外を行き交う車の音、それから、外の蝉の声。それぞれが、はっきりと分かれて聞こえた。


沙織が本のページをめくった。優子は窓の外を見た。アスファルトに、西日が長く影を落としていた。


「梅雨、長かったね」


優子は言った。


「うん。今年は」


沙織が答えた。


「明日も暑いって」


「らしいね」


それだけだった。だが、それだけが、いつもの会話だった。


沙織はもう一度、ページをめくった。優子は自分のカップを見た。釉薬の剥げが、今日もいつもの位置にあった。指先で、そっとなぞった。


しばらくして、沙織がコーヒーを飲み終えた。


「じゃあ」


沙織は言った。


優子も会計をしようと立ち上がった。レジで札を出した。動きはなめらかだった。


会計の途中、優子は店内をいつもよりわずかに長く見渡した。カウンター、奥のテーブル、窓のほうの席、入口に近い席。


店主と、一瞬、視線が合った。


店主は、わずかに目を伏せた。


優子は店を出た。


外、夏の夕方の光が、まだ高く残っていた。


沙織は、入口の前で待っていた。並んで歩く、というふうではなかった。ただ、そこにいた。


二人とも、しばらく無言だった。


「またね」とは、沙織は言わなかった。


優子も言わなかった。


ただ、頷いた。


沙織も頷いた。


それから、二人は別々の方向に歩き出した。


外の空気は、まだ夏の温度を保っていた。


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