晩夏
午後の遅い時間。光が、店内に斜めに差し込んでいた。
夏の終わりの光だった。アスファルトの白さは、すでに勢いを失っている。窓ガラスの曇りもなく、外の街路樹のケヤキは、まだ深い緑のままだった。だが、その緑のなかに、わずかに乾いた色が混じり始めていた。
店主は、カウンターの内側で、コーヒー豆を挽いていた。低い機械の音が、店内に響いた。
奥のテーブル席は、空いていた。窓のほうのテーブル席に、誰も座っていない。入口に近い席にも、誰もいなかった。カウンターの席は、五席のうち、一席だけが埋まっていた。
カウンターの席に座っていたのは、初老の男性だった。本を読んでいた。コーヒーのカップは、半分ほど残っていた。
ドアベルが鳴った。
「いらっしゃい」
店主の声がした。
入ってきたのは、中年の女性だった。一人だった。スーツを着ていた。鞄を抱えるようにして、店内を見渡した。
「どこでも、お好きな席へ」
店主が言った。
女性は奥のテーブル席に向かった。
椅子を引いて、座った。
「ホットを」
女性は注文した。
店主は黙って頷き、カップを取り出した。
棚の中には、白地に青の線の入ったカップがあった。釉薬が、取手のつけ根の部分でわずかに剥げている。店主はそれを見て、少しだけ手を止めた。それから、別の、無地のクリーム色のカップを取った。
釉薬の剥げたカップは、棚に残された。光が、その剥げの部分にあたっていた。今日の光の角度は、これまでと違っていた。剥げの輪郭が、いつもより鮮明に浮かび上がっていた。
店主は、コーヒーを淹れる動作を続けた。ドリッパーから雫が落ちる。一滴、二滴。雫の落ちるリズムは、規則的でも、不規則でもなかった。
砂糖入れがテーブルの隅にあった。白い陶器、縁が少し欠けている。欠けは、すり減って丸くなっていた。長い時間そこにある、ということが、その丸みからわかった。
ミルクピッチャーが、その隣にあった。
時計の秒針の音が、店内のラジオの音に混じって聞こえる。低い男の声でニュースを読んでいる。
店主が、奥のテーブル席にコーヒーを運んだ。クリーム色のカップだった。女性は「ありがとう」と短く言って、カップの取手に手を伸ばした。取手の向きは、彼女のまま、左を向いていた。彼女はそれを直さなかった。
時間が経った。
ドアベルが鳴った。
カウンターの初老の男性が、会計をして、出ていった。
ドアが閉まる音がした。
店主は、カウンターの内側で、洗い物を始めた。
奥のテーブル席。中年の女性は、コーヒーを飲みながら、窓の外を見ていた。窓の外には、ケヤキの並木があった。葉の、わずかに乾いた色。
入口に近い席は、空のままだった。
カウンターの真ん中の席も、空のままだった。
棚に置かれた、釉薬の剥げたカップに、光が当たっていた。誰の手にも取られないまま、午後の光のなかにあった。
奥のテーブル席で、中年の女性が一度、店内を見渡した。何かを探すような顔ではなかった。ただ、そこに何かがある気がした、というふうな顔だった。
だが、何もなかった。
女性はコーヒーを口に運んだ。
時間は、いつものとおりに、流れていた。




