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アスカ  作者: hitoshi_tanabe
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21/23

別のカップ

5月の終わり、初夏の手前だった。六時を過ぎていたが、外はまだ薄く明るかった。


ドアを押した。ドアベルが鳴った。店主が頷いた。優子も頷いた。


沙織はいた。本を閉じて鞄に入れているところだった。視線が合った。目元が動いた。


優子は向かいに座った。椅子を引く動作が、自分でも気づかないうちに軽くなっていた。


店主が二人の前にコーヒーを置いた。


今日のカップは、白地に青の線のものではなかった。クリーム色の無地のものだった。


優子は一瞬、それを見つめた。


釉薬の剥げた、いつものカップは、店主の背後の棚に置かれていた。今日は、別の客が使ったのかもしれなかった。あるいは、ただ、今日はこれを使うことに決めただけかもしれなかった。


優子は、何も言わなかった。


取手の向きを、わずかに右に動かした。動作は、いつもと同じだった。


「アスカ、夏服、もう出した?」


沙織が聞いた。


「まだ」


「私はもう出した。今日、これも、新しいやつ」


沙織は自分のシャツの袖を、軽く引っ張って見せた。淡い水色のシャツだった。


優子は頷いた。「いいね」と言いそうになって、言わなかった。代わりに、もう一度頷いた。


会話はそれで終わった。


優子は、自分の身体が、座っているのに、座っていないような感じがした。何かを引き受けて座っているのではなかった。ただ、そこに、いた。


カップに手を伸ばした。クリーム色の無地のカップは、釉薬の剥げたものより、わずかに重く感じた。気のせいかもしれなかった。


コーヒーを口に運んだ。味は、いつもと同じだった。


時間が経った。


「じゃあ」


沙織が立ち上がった。


「うん」


優子は頷いた。


沙織は出ていった。


優子はそのまま座っていた。クリーム色のカップに残ったコーヒーを、最後まで飲んだ。


会計をした。


帰り道。葉桜の緑が、もう深い緑になりかけていた。


外の空気が、わずかに重かった。湿気の匂いが、混じっていた。


歩道のタイルを踏みながら、家への道を歩いた。


「アスカ」と呼ばれていたことを、忘れたまま、歩いていた。


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