別のカップ
5月の終わり、初夏の手前だった。六時を過ぎていたが、外はまだ薄く明るかった。
ドアを押した。ドアベルが鳴った。店主が頷いた。優子も頷いた。
沙織はいた。本を閉じて鞄に入れているところだった。視線が合った。目元が動いた。
優子は向かいに座った。椅子を引く動作が、自分でも気づかないうちに軽くなっていた。
店主が二人の前にコーヒーを置いた。
今日のカップは、白地に青の線のものではなかった。クリーム色の無地のものだった。
優子は一瞬、それを見つめた。
釉薬の剥げた、いつものカップは、店主の背後の棚に置かれていた。今日は、別の客が使ったのかもしれなかった。あるいは、ただ、今日はこれを使うことに決めただけかもしれなかった。
優子は、何も言わなかった。
取手の向きを、わずかに右に動かした。動作は、いつもと同じだった。
「アスカ、夏服、もう出した?」
沙織が聞いた。
「まだ」
「私はもう出した。今日、これも、新しいやつ」
沙織は自分のシャツの袖を、軽く引っ張って見せた。淡い水色のシャツだった。
優子は頷いた。「いいね」と言いそうになって、言わなかった。代わりに、もう一度頷いた。
会話はそれで終わった。
優子は、自分の身体が、座っているのに、座っていないような感じがした。何かを引き受けて座っているのではなかった。ただ、そこに、いた。
カップに手を伸ばした。クリーム色の無地のカップは、釉薬の剥げたものより、わずかに重く感じた。気のせいかもしれなかった。
コーヒーを口に運んだ。味は、いつもと同じだった。
時間が経った。
「じゃあ」
沙織が立ち上がった。
「うん」
優子は頷いた。
沙織は出ていった。
優子はそのまま座っていた。クリーム色のカップに残ったコーヒーを、最後まで飲んだ。
会計をした。
帰り道。葉桜の緑が、もう深い緑になりかけていた。
外の空気が、わずかに重かった。湿気の匂いが、混じっていた。
歩道のタイルを踏みながら、家への道を歩いた。
「アスカ」と呼ばれていたことを、忘れたまま、歩いていた。




