実家
水曜日の十七時半過ぎ、沙織は編集部の自分のデスクで、画面を見ていた。
横の島で、同じ編集部の女性が電話に出ている。「お世話になっております」。沙織は、その声を聞いていた。よく通る声だ、と思った。
「沙織さん、コーヒーいれたけど、いる?」
同僚の男性が、給湯室の方から声をかけた。
「ありがとう、いただきます」
沙織は答えた。
その瞬間、自分の声が、他人の声のように聞こえた。
「沙織さん、来週の打ち合わせ、月曜だっけ?」
別の編集者が、デスクの脇に立った。
「火曜です」
「あ、そう。ごめん」
「いえ」
会話は短かった。同僚は離れていった。
沙織は、自分の手を見た。マウスの上に置かれた手。爪が短い。これはいつ切ったのだろう。先週か、先々週か、思い出せなかった。だが、爪は短かった。
時計を見た。六時を過ぎていた。沙織は荷物をまとめ、立ち上がった。コートを羽織ると、首から下げた社員証は、襟元に隠れた。
外に出ると、桜はもう、終わりかけていた。残った花が、街灯の明かりに白く浮かんでいた。一週間前に満開だった木が、今は半分以上散っていた。
歩きながら、沙織はバッグの中で、スマートフォンが震えるのを感じた。
画面に、「お母さん」と表示されていた。
沙織は歩道の端に寄って、電話に出た。
「沙織?」
母の声がした。
「うん」
沙織は答えた。
その「沙織」が、母の発音する音として、耳に届いた。
「最近どう、忙しい?」
「うん、まあ」
「お父さん、最近、ちょっと調子悪くてね。明後日、健康診断なの。たまには、帰ってこない?」
「来週、仕事で」
「そう。沙織はいつになったら、ちゃんと帰ってくるのよ」
「うん、ごめん」
「結婚の話とかも、ないの?」
沙織は、葉桜の下で、立ち止まった。
「ないよ。ごめん、今、移動中だから」
「そう。じゃあまた」
電話が切れた。
沙織は、そのまま、しばらく歩道に立っていた。
頭上で葉桜の緑が、夕方の光に揺れていた。
歩道の脇、誰かのマンションの一階の窓に、洗濯物が干されていた。シャツ、タオル、子どものものらしい小さな服。沙織は、それを見ながら歩いた。
それは、誰かの生活だった。
沙織自身の部屋には、洗濯物は干されていない。今朝、出る前に乾燥機を回したからだった。沙織のシャツも、タオルも、機械の中で乾いていた。
家具が他人のもののように見える、と感じることが、最近、ある。デスクの椅子、ベッド、本棚。何度か買い換えたものもあった。何年も同じものもあった。だが、どれも、自分の身体に馴染んでいない、ような気がする。
アスカ。
ふと、その名前を、頭の中で呼んだ。
ただ、その「アスカ」という音が、今、別のものを指していた。
ドアベルが鳴った。
「いらっしゃい」とは言われなかった。店主は顔を上げて、頷いた。沙織も頷いた。
奥のテーブル席に、女性は座っていた。
沙織は向かいに座った。
「アスカ」
沙織は言った。
「うん」
女性は答えた。
それだけで、何かが、沙織の中に戻ってきたような気がした。
何が戻ってきたのか、沙織には分からなかった。
店主がコーヒーを置いた。沙織は取手の向きを直した。女性も同じ動きをした。
二人の動きは、ほとんど揃っていた。
会話は途切れた。沙織は、それを自分の身体で感じていた。
ここでは、自分の声が、自分の声に聞こえる。
なぜだろう、と一瞬思ったが、すぐにそのことを考えるのをやめた。
考える必要はなかった。
「アスカ、最近、何か変わった?」
沙織は聞いた。先週も、似たことを聞いた気がした。
「ううん」
女性は答えた。
それでよかった。
時間が経った。
沙織が立ち上がった。
「じゃあ」
女性が頷いた。
帰り道、沙織はもう一度、葉桜の下を歩いた。
頭上で揺れる緑。歩道のタイル。靴底、自分の重さ。
自分の足音を聞いた。
確かに、聞いた。




