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アスカ  作者: hitoshi_tanabe
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20/23

実家

水曜日の十七時半過ぎ、沙織は編集部の自分のデスクで、画面を見ていた。


横の島で、同じ編集部の女性が電話に出ている。「お世話になっております」。沙織は、その声を聞いていた。よく通る声だ、と思った。


「沙織さん、コーヒーいれたけど、いる?」


同僚の男性が、給湯室の方から声をかけた。


「ありがとう、いただきます」


沙織は答えた。


その瞬間、自分の声が、他人の声のように聞こえた。


「沙織さん、来週の打ち合わせ、月曜だっけ?」


別の編集者が、デスクの脇に立った。


「火曜です」


「あ、そう。ごめん」


「いえ」


会話は短かった。同僚は離れていった。


沙織は、自分の手を見た。マウスの上に置かれた手。爪が短い。これはいつ切ったのだろう。先週か、先々週か、思い出せなかった。だが、爪は短かった。


時計を見た。六時を過ぎていた。沙織は荷物をまとめ、立ち上がった。コートを羽織ると、首から下げた社員証は、襟元に隠れた。


外に出ると、桜はもう、終わりかけていた。残った花が、街灯の明かりに白く浮かんでいた。一週間前に満開だった木が、今は半分以上散っていた。


歩きながら、沙織はバッグの中で、スマートフォンが震えるのを感じた。


画面に、「お母さん」と表示されていた。


沙織は歩道の端に寄って、電話に出た。


「沙織?」


母の声がした。


「うん」


沙織は答えた。


その「沙織」が、母の発音する音として、耳に届いた。


「最近どう、忙しい?」


「うん、まあ」


「お父さん、最近、ちょっと調子悪くてね。明後日、健康診断なの。たまには、帰ってこない?」


「来週、仕事で」


「そう。沙織はいつになったら、ちゃんと帰ってくるのよ」


「うん、ごめん」


「結婚の話とかも、ないの?」


沙織は、葉桜の下で、立ち止まった。


「ないよ。ごめん、今、移動中だから」


「そう。じゃあまた」


電話が切れた。


沙織は、そのまま、しばらく歩道に立っていた。


頭上で葉桜の緑が、夕方の光に揺れていた。


歩道の脇、誰かのマンションの一階の窓に、洗濯物が干されていた。シャツ、タオル、子どものものらしい小さな服。沙織は、それを見ながら歩いた。


それは、誰かの生活だった。


沙織自身の部屋には、洗濯物は干されていない。今朝、出る前に乾燥機を回したからだった。沙織のシャツも、タオルも、機械の中で乾いていた。


家具が他人のもののように見える、と感じることが、最近、ある。デスクの椅子、ベッド、本棚。何度か買い換えたものもあった。何年も同じものもあった。だが、どれも、自分の身体に馴染んでいない、ような気がする。


アスカ。


ふと、その名前を、頭の中で呼んだ。


ただ、その「アスカ」という音が、今、別のものを指していた。


ドアベルが鳴った。


「いらっしゃい」とは言われなかった。店主は顔を上げて、頷いた。沙織も頷いた。


奥のテーブル席に、女性は座っていた。


沙織は向かいに座った。


「アスカ」


沙織は言った。


「うん」


女性は答えた。


それだけで、何かが、沙織の中に戻ってきたような気がした。


何が戻ってきたのか、沙織には分からなかった。


店主がコーヒーを置いた。沙織は取手の向きを直した。女性も同じ動きをした。


二人の動きは、ほとんど揃っていた。


会話は途切れた。沙織は、それを自分の身体で感じていた。


ここでは、自分の声が、自分の声に聞こえる。


なぜだろう、と一瞬思ったが、すぐにそのことを考えるのをやめた。


考える必要はなかった。


「アスカ、最近、何か変わった?」


沙織は聞いた。先週も、似たことを聞いた気がした。


「ううん」


女性は答えた。


それでよかった。


時間が経った。


沙織が立ち上がった。


「じゃあ」


女性が頷いた。


帰り道、沙織はもう一度、葉桜の下を歩いた。


頭上で揺れる緑。歩道のタイル。靴底、自分の重さ。


自分の足音を聞いた。


確かに、聞いた。


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