アスカ
水曜日ではなかった。
沙織は、いつもの店のカウンター席に、一人で座っていた。仕事帰りだった。
本を、開いていた。だが、文字は、頭に入ってこなかった。
コーヒーは、半分残っていた。冷めかけていた。
ふと、思い出した。
アスカは、中学のとき、隣の席だった。
*
中学二年の春、新しいクラスで、沙織は窓側の前から二番目に座った。隣の席に、アスカが座った。
「沙織って、なんて読むの?」
アスカが聞いた。
「さおり」
「綺麗な字だね」
それだけだった。
その日から、何となく、一緒に帰るようになった。
*
高校も同じだった。クラスは違ったが、毎日のように、一緒に帰った。
アスカは、本を読む人だった。沙織もそうだった。本の話を、よくした。
「私、大人になっても、こうしてたいな」
アスカが言った。
「うん」
沙織は答えた。
その「こうしてたい」が、何を指していたのか、沙織は今でも、分からない。
*
大学で離れた。アスカは、東京の私立大学に行った。沙織は、関西の国立大学だった。
会う頻度が、少しずつ減っていった。
最初の年は、月に一度くらい、帰省したときに会っていた。次の年は、季節に一度。それから、年に一度。
連絡だけが、続いた。
*
二十代の半ばのある日、アスカからメッセージが届いた。
「結婚することになった」
それだけだった。
沙織は「おめでとう」と返した。
それから、半年後、「子どもが生まれた」と、写真が届いた。
「おめでとう」
沙織は返した。
*
それから、メッセージは、来なくなった。
沙織も、送らなくなった。
最後にいつ、メッセージを送ったのか、沙織は思い出せなかった。
*
沙織は、本を、また開いた。
ページの上に、文字が並んでいた。
「アスカ」という名前は、目の前には、なかった。
だが、その音は、ずっと、沙織の中にあった。
*
ドアベルが鳴った。
新しい客が入ってきた。沙織は、顔を上げなかった。
ただ、本のページに、目を落としていた。




