葉桜
4月。桜の季節は、もう終わりかけだった。
ケヤキの並木の合間に、桜の木が一本だけある。その木の花が、半分ほど散っていた。残った花びらは、雨が降ると一気に落ちるだろう、と優子は思った。
ドアを押した。ドアベルが鳴った。店主が頷いた。優子も頷いた。
沙織はいた。本を開いていた。
優子は向かいに座った。
「アスカ、暑くない?」
「まだ大丈夫」
「桜、終わっちゃったね」
「うん」
会話はそれだけだった。
店主が二人の前にコーヒーを置いた。優子のカップは、白地に青の線だった。釉薬の剥げた部分が、いつもの位置にあった。今日は、剥げが少し広がっているように見えた。光の加減かもしれなかった。あるいは、本当に広がっているのかもしれなかった。優子には、判別がつかなかった。
優子は取手の向きを直した。
先月、離婚届の「妻」欄に判を押した瞬間の、指先の動きが、ふと甦った。同じ静けさで、同じ向きの動作だった。
向かいで、沙織が本のページをめくった。
優子は窓の外を見た。葉桜の緑が、夕方の光に揺れていた。
「最近、何かあった?」
沙織が聞いた。
優子は窓から視線を戻した。
「ううん」
「そうか」
それで会話は終わった。だが、沙織は何かを察したような顔をしていた。優子はそれに気づいたが、何も言わなかった。沙織も、それ以上聞かなかった。
財布を取り出すとき、優子は中を一瞬覗いた。普段とは違うカードが入っていた。
優子は財布を閉じて、テーブルに置いた。
時間が経った。
沙織が立ち上がった。
「じゃあ」
優子は頷いた。
会計をした。優子は札を出す動きが、いつもより少し速かった。なめらかだった、と言ったほうが正確だった。最近、何度かこの動きをしていた、ような気がした。
外に出た。葉桜の下を歩いた。
歩く速度が、いつもよりわずかに速かった。だが、急いでいたわけではなかった。
ただ、身体が、そうなっていた。




