優子さん
朝、優子は目を覚ました。
夫はもう、出かけていた。リビングのテーブルに、コーヒーカップが残っていた。半分ほど残ったコーヒーが、冷めていた。
カップの取手の向きは、優子のほうを向いていなかった。逆向きだった。
優子はそれを、しばらく見ていた。
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七年前、夏だった。
優子は同じ会社にいた。今の夫も、そこにいた。
部署が違った。共通の業務は、月に一度の会議だけだった。
「優子さん、これ、ちょっと見てもらえますか」
夫——その頃はまだ夫ではなかった——が、紙の束を差し出した。
優子は受け取った。
「はい」
それだけだった。
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それから、半年が経った頃、二人は付き合い始めた。
社内では、優子は彼を下の名前で呼んでいた。彼は「優子さん」と呼び続けていた。
ある秋の夜、二人で会社を出て、駅の方へ歩いていた。彼の少し後ろを歩いていた優子は、彼の歩幅が、自分のものとは違うことに、ふと気づいた。
「優子」
彼が、振り返らずに言った。さんが取れていた。
優子は気づかなかったふりをした。だが、聞き取っていた。
それから、「優子」が、いつもの呼び方になった。
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五年前、二人は結婚した。
結婚式の朝、ヘアメイクの女性が「西山の奥様、こちらへどうぞ」と呼んだ。優子は一拍、反応しなかった。
新姓に慣れるまで、数ヶ月かかった。
夫は「優子」と呼び続けていた。だが、外で優子は、「西山の奥さん」と呼ばれることも、増えていった。
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結婚して二年が経った頃、二人はマンションを買った。今の家だった。
それから、夫の帰宅時間が、少しずつ遅くなっていった。
呼び方も、少しずつ変わっていった。「優子」のときもあった。「ねぇ」のときもあった。何も呼ばずに、ただ用件だけが投げかけられることも、増えていった。
「もう出るから、鞄取って」
「これ、明日までに頼む」
「先に寝るから」
優子はそれに、「うん」と答えていた。声を出さずに、頷くこともあった。
「ねぇ」と呼ばれた最初の一回が、いつだったのか、優子はもう、思い出せなかった。だが、最初は、あった。ある日、夫はそう呼んだ。優子は、いつものように、頷いた。
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リビングのテーブルに、夫のコーヒーカップが残っていた。
優子は、それを片付けた。シンクで洗った。
カップの取手の向きを、わずかに右に動かしてから、棚に戻した。
外は、まだ静かだった。




