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アスカ  作者: hitoshi_tanabe
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16/20

優子さん

朝、優子は目を覚ました。


夫はもう、出かけていた。リビングのテーブルに、コーヒーカップが残っていた。半分ほど残ったコーヒーが、冷めていた。


カップの取手の向きは、優子のほうを向いていなかった。逆向きだった。


優子はそれを、しばらく見ていた。


---


七年前、夏だった。


優子は同じ会社にいた。今の夫も、そこにいた。


部署が違った。共通の業務は、月に一度の会議だけだった。


「優子さん、これ、ちょっと見てもらえますか」


夫——その頃はまだ夫ではなかった——が、紙の束を差し出した。


優子は受け取った。


「はい」


それだけだった。


---


それから、半年が経った頃、二人は付き合い始めた。


社内では、優子は彼を下の名前で呼んでいた。彼は「優子さん」と呼び続けていた。


ある秋の夜、二人で会社を出て、駅の方へ歩いていた。彼の少し後ろを歩いていた優子は、彼の歩幅が、自分のものとは違うことに、ふと気づいた。


「優子」


彼が、振り返らずに言った。さんが取れていた。


優子は気づかなかったふりをした。だが、聞き取っていた。


それから、「優子」が、いつもの呼び方になった。


---


五年前、二人は結婚した。


結婚式の朝、ヘアメイクの女性が「西山の奥様、こちらへどうぞ」と呼んだ。優子は一拍、反応しなかった。


新姓に慣れるまで、数ヶ月かかった。


夫は「優子」と呼び続けていた。だが、外で優子は、「西山の奥さん」と呼ばれることも、増えていった。


---


結婚して二年が経った頃、二人はマンションを買った。今の家だった。


それから、夫の帰宅時間が、少しずつ遅くなっていった。


呼び方も、少しずつ変わっていった。「優子」のときもあった。「ねぇ」のときもあった。何も呼ばずに、ただ用件だけが投げかけられることも、増えていった。


「もう出るから、鞄取って」

「これ、明日までに頼む」

「先に寝るから」


優子はそれに、「うん」と答えていた。声を出さずに、頷くこともあった。


「ねぇ」と呼ばれた最初の一回が、いつだったのか、優子はもう、思い出せなかった。だが、最初は、あった。ある日、夫はそう呼んだ。優子は、いつものように、頷いた。


---


リビングのテーブルに、夫のコーヒーカップが残っていた。


優子は、それを片付けた。シンクで洗った。


カップの取手の向きを、わずかに右に動かしてから、棚に戻した。


外は、まだ静かだった。


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