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アスカ  作者: hitoshi_tanabe
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15/20

靴音

朝、優子は会社のデスクで、書類に名前を書こうとしていた。


ボールペンを持った。指先が、無意識に、ペンを右へわずかに動かした。喫茶店でカップの取手を直す向きと、同じだった。


ボールペンの先が紙に触れた。一画目で、手が止まった。


優子。


その文字を書こうとして、なぜか、迷いが入った。一瞬、自分の名前が、自分のものではないように感じた。


それは一拍だった。


優子は書いた。優しい、子。普段と同じ筆跡だった。書類は問題なく完成した。


午後、優子はドアを押した。ドアベルが鳴った。店主が頷いた。優子も頷いた。


沙織はいた。本を開いていた。


優子は向かいに座った。


「アスカ、桜、まだだね」


「うん」


「来週には咲くかな」


「分からない」


会話はそれだけだった。


店主が二人の前にコーヒーを置いた。優子のカップは、白地に青の線だった。釉薬の剥げた部分が、今日も指で触れる位置にあった。


優子は取手の向きを直した。


左手の薬指を、ふと見た。指輪のあった場所の皮膚が、まわりよりもわずかに白かった。痕というほどではなかった。だが、気がつかなければ、気がつかない、というものでもなかった。


優子は左手を、すぐにテーブルの下に下ろした。


沙織が、一瞬、優子の左手を見た。視線はすぐに逸れた。何も言わなかった。


しばらくして、コーヒーを飲み終えた。


「また」


沙織が言った。


「また」


優子も答えた。


沙織が立ち上がって、出ていった。


優子も会計をして、店を出た。


通りに出ると、春の匂いがした。土の温度が上がっている、そういう種類の匂いだった。


歩き始めた。


歩道のタイル、靴底、自分の重さ。


自分の足音が、誰の足音とも違って聞こえた。アスカの足音、というふうにも、聞こえた。


だが、優子はそれ以上、考えなかった。


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