靴音
朝、優子は会社のデスクで、書類に名前を書こうとしていた。
ボールペンを持った。指先が、無意識に、ペンを右へわずかに動かした。喫茶店でカップの取手を直す向きと、同じだった。
ボールペンの先が紙に触れた。一画目で、手が止まった。
優子。
その文字を書こうとして、なぜか、迷いが入った。一瞬、自分の名前が、自分のものではないように感じた。
それは一拍だった。
優子は書いた。優しい、子。普段と同じ筆跡だった。書類は問題なく完成した。
午後、優子はドアを押した。ドアベルが鳴った。店主が頷いた。優子も頷いた。
沙織はいた。本を開いていた。
優子は向かいに座った。
「アスカ、桜、まだだね」
「うん」
「来週には咲くかな」
「分からない」
会話はそれだけだった。
店主が二人の前にコーヒーを置いた。優子のカップは、白地に青の線だった。釉薬の剥げた部分が、今日も指で触れる位置にあった。
優子は取手の向きを直した。
左手の薬指を、ふと見た。指輪のあった場所の皮膚が、まわりよりもわずかに白かった。痕というほどではなかった。だが、気がつかなければ、気がつかない、というものでもなかった。
優子は左手を、すぐにテーブルの下に下ろした。
沙織が、一瞬、優子の左手を見た。視線はすぐに逸れた。何も言わなかった。
しばらくして、コーヒーを飲み終えた。
「また」
沙織が言った。
「また」
優子も答えた。
沙織が立ち上がって、出ていった。
優子も会計をして、店を出た。
通りに出ると、春の匂いがした。土の温度が上がっている、そういう種類の匂いだった。
歩き始めた。
歩道のタイル、靴底、自分の重さ。
自分の足音が、誰の足音とも違って聞こえた。アスカの足音、というふうにも、聞こえた。
だが、優子はそれ以上、考えなかった。




