釉薬
3月の初旬。六時を少し過ぎていた。窓の外、街灯に照らされた街路樹の枝先に、緑がついていた。芽だった。
優子はドアを押した。ドアベルが鳴った。店主が頷いた。優子も頷いた。
女性はいた。本を開いていた。
優子は向かいに座った。
「アスカ、もう春だね」
女性が言った。
「うん」
「桜、咲くかな」
「まだ早い」
「そうだね」
会話はそれで途切れた。
店主が二人の前にコーヒーを置いた。
優子のカップは、白地に青の線だった。優子はカップを少し自分のほうに引き寄せて、取手の向きを直した。
その時、優子は気づいた。カップの取手のつけ根、ちょうど指で持つ部分の下に、釉薬が薄く剥げていた。白い陶器の地肌が、うっすらと露出している。気のせいではなかった。前から剥げていた、ということが、指先の感触から伝わった。
優子は、そのことを言わなかった。
女性が、ふと窓の外を見た。視線が止まった。何かを思い出しているような表情だった。
女性の首に、細いストラップが下がっていた。先端に、社員証がついている。新年の頃にも、優子は同じものを見ていた。今日は、女性が身体を斜めに向けた拍子に、文字が優子のほうに向いていた。
社名の下、漢字で名前があった。
沙織。
優子は、その二文字を、心の中で一度だけ読んだ。口には出さなかった。
優子は、その横顔を、少し長く見つめた。
沙織が、優子のほうに視線を戻した。
「ごめん、何だっけ」
「何も話してない」
「そうか」
沙織は微笑った。優子も、つられて少しだけ口元を緩めた。
沙織が口を開きかけた。
「ア——」
それきり、続かなかった。口を閉じた、というほどでもなかった。ただ、音が止まった。
優子も、何も問わなかった。
時間が経った。
沙織が立ち上がった。
「アスカ、また来週」
優子は頷いた。
「アスカ」が、今日はいつもより、少し違う響きを持っていた。
沙織は出ていった。
優子はそのまま座っていた。カップの取手のつけ根の、釉薬が剥げた部分を、指でそっとなぞった。
陶器の温度が、わずかに低かった。




