はい
「優子」
朝、リビングで夫の声がした。同じ朝だった。
優子は台所で皿を洗っていた。手が止まった。
水道の蛇口は、まだ開いていた。冷たい水が、シンクの底を流れる音だけがしていた。
一拍。それから、もう一拍。
「はい」
優子は答えた。声は、自分の声に聞こえなかった。
「もう出るから、鞄取って」
「うん」
優子は手を拭いた。動き出すまでに、一拍あった。それから、玄関に向かった。夫の鞄を持ち上げて、リビングに運んだ。夫は新聞を畳んで立ち上がるところだった。
「ありがとう」
夫は鞄を受け取って、玄関へ向かった。
「いってらっしゃい」
優子は言った。
ドアが閉まる音がした。
六時を過ぎ、優子はドアを押した。ドアベルが鳴った。
店主が頷いた。優子も頷いた。
奥のテーブル席に、女性はいた。先月のカウンター席は、一度きりだった。今日は、また向かい合わせだった。テーブル一つ分の距離が、戻っていた。
優子は向かいに座った。
「アスカ、寒くない?」
女性が言った。
「まあまあ、寒いかな」
「手袋、まだ持ってないの?」
「持ってない」
「もうすぐ春だしね」
会話はそれだけだった。
店主が二人の前にコーヒーを置いた。優子のカップは、白地に青の線だった。
優子は取手の向きを直した。
女性は今日、手袋をテーブルに置いていた。指先の薄い、黒革のもの。前と同じものだ、と優子は思った。
砂糖入れの欠けは、いつもの位置にあった。優子はそれを見つめた。
今朝、台所で「優子」と呼ばれた、夫の声が、ふと耳の奥に戻ってきた。
女性は、何かを言いかけて、口を閉じた。それから、
「アスカ?」
と呼んだ。
「うん」
優子は答えた。
「コーヒー、冷めるよ」
優子はカップに手を伸ばし、口に運んだ。まだ熱かった。
時計の音が聞こえた。
しばらくして、女性が立ち上がった。
「じゃあ」
優子は頷いた。
女性が出ていった。
帰り道。空はもう暗かった。家の窓は、まだ暗いままだろう。夫が帰るには、早い時間だった。
優子は歩きながら、自分の靴音を聞いていた。歩道のタイル、靴底、自分の重さ。
ふと、口の中で、声を出さずに、
アスカ。
と呼んでみた。
返事は、しなかった。




