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アスカ  作者: hitoshi_tanabe
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12/21

はい

「優子」


朝、リビングで夫の声がした。同じ朝だった。


優子は台所で皿を洗っていた。手が止まった。


水道の蛇口は、まだ開いていた。冷たい水が、シンクの底を流れる音だけがしていた。


一拍。それから、もう一拍。


「はい」


優子は答えた。声は、自分の声に聞こえなかった。


「もう出るから、鞄取って」


「うん」


優子は手を拭いた。動き出すまでに、一拍あった。それから、玄関に向かった。夫の鞄を持ち上げて、リビングに運んだ。夫は新聞を畳んで立ち上がるところだった。


「ありがとう」


夫は鞄を受け取って、玄関へ向かった。


「いってらっしゃい」


優子は言った。


ドアが閉まる音がした。


六時を過ぎ、優子はドアを押した。ドアベルが鳴った。


店主が頷いた。優子も頷いた。


奥のテーブル席に、女性はいた。先月のカウンター席は、一度きりだった。今日は、また向かい合わせだった。テーブル一つ分の距離が、戻っていた。


優子は向かいに座った。


「アスカ、寒くない?」


女性が言った。


「まあまあ、寒いかな」


「手袋、まだ持ってないの?」


「持ってない」


「もうすぐ春だしね」


会話はそれだけだった。


店主が二人の前にコーヒーを置いた。優子のカップは、白地に青の線だった。


優子は取手の向きを直した。


女性は今日、手袋をテーブルに置いていた。指先の薄い、黒革のもの。前と同じものだ、と優子は思った。


砂糖入れの欠けは、いつもの位置にあった。優子はそれを見つめた。


今朝、台所で「優子」と呼ばれた、夫の声が、ふと耳の奥に戻ってきた。


女性は、何かを言いかけて、口を閉じた。それから、


「アスカ?」


と呼んだ。


「うん」


優子は答えた。


「コーヒー、冷めるよ」


優子はカップに手を伸ばし、口に運んだ。まだ熱かった。


時計の音が聞こえた。


しばらくして、女性が立ち上がった。


「じゃあ」


優子は頷いた。


女性が出ていった。


帰り道。空はもう暗かった。家の窓は、まだ暗いままだろう。夫が帰るには、早い時間だった。


優子は歩きながら、自分の靴音を聞いていた。歩道のタイル、靴底、自分の重さ。


ふと、口の中で、声を出さずに、


アスカ。


と呼んでみた。


返事は、しなかった。


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