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アスカ  作者: hitoshi_tanabe
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10/19

新年

年が明けて最初の水曜日だった。六時を過ぎていた。外は完全な夜だった。


ドアを押した。ドアベルが鳴った。


「あけましておめでとうございます」


店主が言った。


優子は一瞬、戸惑った。だが、頷いて、「おめでとうございます」と返した。声は小さかった。


奥のテーブル席に、女性はいた。すでに本を開いていた。


優子は向かいに座った。


女性の首から、細いストラップが下がっていた。先端に、会社の社員証のようなものがついている。コートを脱いでも、外し忘れているのだろう。文字は読めない角度だった。優子は一瞬それに目を留めて、視線を逸らした。逸らしてからも、目の奥に、文字の輪郭だけが、薄く残っていた。


「あけましておめでとう」


女性が言った。


「おめでとう」


優子は答えた。声を、ほんの少しだけ上げたつもりだった。届いたか、伝わったか、自分でも分からなかった。


それで挨拶は終わった。


女性が読んでいる本の表紙が見えた。前に読んでいたのとは違う本だ、と優子は思った。冬至の頃に買ったのか、もっと前か、判然としなかった。タイトルは『窓』とだけ書かれていた。漢字一文字、白い表紙だった。著者の名前は読めなかった。


店主が二人の前にコーヒーを置いた。


優子のカップは、白地に青の線のものだった。それから、取手の向きを直した。


窓ガラスに薄く結露がついていた。今朝はとくに冷えたのだろう。優子のコーヒーから立つ湯気が、窓の方向にゆっくり流れた。湯気の輪郭が、いつもより細かく見えた。


低いラジオの音がしていた。男の声でニュースを読んでいる。今日は箱根駅伝の話題だった。「往路、二位の差は二分二十秒です」。優子はそれを聞き流した。今朝、家のテレビにも、同じ声が流れていた気がした。だが、見ていなかった。


砂糖入れがテーブルの隅にあった。今日、欠けの位置が、優子のいる側からよく見える角度になっていた。誰かが動かしたのだろうか。あるいは、優子が席を引いた時に、自分でずらしたのかもしれない。


指で、欠けの縁をなぞった。鋭くはなかった。むしろ、すり減って丸くなっていた。長い時間そこにある、ということが、指先から伝わった。


「読み終わったら、貸そうか」


女性が言った。


「え」


「この本」


優子は『窓』を見た。


「ありがとう。けど、いいや」


優子は答えた。


「うん」


女性は本を閉じた。背表紙の角度が変わった。


時間が経った。


女性が立ち上がった。


「じゃあ」


優子は頷いた。


女性が出ていったあと、優子はもう少し座っていた。


砂糖入れの欠けに、もう一度指を当てた。今日、初めて「長い時間そこにある」と感じた、ということを、優子はまだ覚えていた。


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