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第6話 あの歌声の正体

「なあ、サトル」

昼休み。弁当の卵焼きを口に運ぼうとしたところで、タクミが箸を向けてきた。

「お前、藤沢のこと好きなの?」

「ぶっ!」

危うく卵焼きを噴き出すところだった。

「いきなり何言ってんだよ」

「いや、昨日すげえ格好よかったじゃん。あいつら相手に『だったら何?』って」

「あれは、別に」

「しかも帰りも一緒だったろ?」

「新田と工藤もいただろ」

「途中から二人だったじゃん」

……こいつ、どこまで見てんだ。

タクミはにやにや笑っている。

「で、どうなの?」

「……わかんねえよ」

「何それ」

俺だって聞きたい。

十二年前、俺はユリと付き合った。そしてたった二週間で、ひどい振り方をした。

今は同じ失敗を繰り返したくない。そう思っている。

でも、それと好きになることは、同じなんだろうか。

ユリが笑ってくれたら嬉しい。

昨日、あの子が涙を拭ってくれたときは、心底ほっとした。

その気持ちに嘘はない。

「……気にはなってる」

「ほら!」

「声でけえよ!」

タクミは勝ち誇ったように笑った。

「ま、今のお前の方がいいと思うぜ」

「……は?」

「前は人の目ばっか気にしてたし」

思わず箸が止まった。

十二年前の俺を知っているこいつに言われると、妙に刺さる。

「……そうかもな」

「え、素直。キモ」

「お前が言ったんだろ!」

いつものように言い合って、二人で笑った。


*


その日の放課後、テニス部は休みだった。

せっかくだから早く帰ろうとした俺を、タクミが呼び止めた。

「そういや、お前最近ギター弾いてなくね?」

「……ギター?」

「音楽室。前は部活ない日に行ってただろ」

ああ、そうだった。

父親の影響で小学生の頃から弾いていたギター。高校では、音楽の先生に頼んで、空いた音楽室を使わせてもらっていた。

二十九歳になっても時々弾いていたのに、この校舎に戻ってからはすっかり忘れていた。

「……久々に行ってみるか」

「お、いいじゃん」

「お前も聴いてく?」

「いや、俺は帰る」

「誘っといて帰るのかよ!」

「腹減った!」

そう言ってタクミは駆けていった。

まったく、自由なやつだ。


音楽室の扉を開ける。

壁に並んだ音楽家の肖像画。窓際の譜面台。少し古い木の床。

「……懐かしいな」

十二年前、何度もここに来た。

ギターは棚の横にあるケースに入っていた。昔、俺が持ち込んで置かせてもらっていたものだ。

取り出して膝に乗せると、指が自然に弦を探した。

ぽろん。

少し狂った音を合わせる。

不思議なものだ。数学の公式は忘れたのに、コードの押さえ方はよく覚えている。

「……よし」

昔、何度も練習した曲を弾いてみる。

最初の数小節はぎこちなかった。

でも、続けるうちに指が慣れてきた。

歌い出す。

好きなロックバンドの曲だった。

高校生の頃、歌詞を覚えるまで何度も聴いた曲。

二十九歳になってからも、ふと思い出して口ずさんだことがある。

サビで声を張る。

夕日が差し込む音楽室に、ギターの音が広がった。

なんだか、本当に戻ってきたんだな。

授業も、部活も、面倒なことだらけだけど。

こうして弾いていると、十七歳だった頃の気持ちまで戻ってくるみたいだった。

最後のコードを鳴らす。

余韻が消えていく。

「……ふぅ」

時計を見る。そろそろ帰るか。

ギターをケースにしまいかけたとき、廊下でぱたぱたと足音がした。

「……ん?」

誰か走っていったのか?

扉の方を見たが、人影はない。

「気のせいか」

俺はケースの留め具を閉じた。

久しぶりに歌ったせいで、ちょっと喉が疲れた。

でも、気分は悪くない。

また暇な日に来よう。

そう思って、俺は音楽室をあとにした。


*


少し前。


藤沢ユリは、図書室で借りた本を抱えて廊下を歩いていた。

今日はアカリもシホも先に帰っている。

階段へ向かおうとしたときだった。


ぽろん。


ギターの音。

ユリは足を止めた。

……音楽室?

そのまま通り過ぎようとして、次の瞬間、息をのんだ。


聞き覚えのある歌声だった。


「……あ」


胸がどきんと鳴る。

間違いない。

数日前、偶然この廊下で耳にした、あの声だ。

大好きなバンドのボーカルに似ていて、何度も聴きたいと思った歌声。

それから何度か音楽室の前を通ってみたけれど、一度も聴けなかった。

もう会えないのかな、と少し諦めかけていた。


……また、聴けた。


ユリは本を胸に抱き直し、音楽室へ近づいた。

扉は閉まっている。

中の姿は見えない。

でも、あの日と同じように、声だけははっきり届いた。

しかも、今歌っているのは、あのときと同じ曲。

ユリが何度も繰り返し聴いてきた、大好きな曲だった。

壁際に立ち、そっと耳を澄ます。

上手だな。

やっぱり、好きな声だな。

自然と頬が緩んだ。

もっと聴いていたい。

でも、曲は少しずつ終わりに近づいていく。


最後のギターの音が消えた。


……終わっちゃった。


ユリは扉を見つめた。

この前は、何もできずに帰った。

誰なのか聞いてみたかったのに、勇気が出なかった。

今日もこのまま帰ったら、また気になってしまう。

だったら、少しだけ。

顔を見るだけなら、いいよね。


そっと扉に手をかける。

音を立てないように、ほんの少しだけ隙間を開けた。

窓から夕日が差し込んでいる。

一人の男の子が、椅子に座ってギターを片づけていた。

横顔は、逆光ではっきり見えない。

もう少しだけ覗こうとした、そのとき。


男の子が顔を上げた。


「……え?」


ユリの指が止まった。

見間違えるはずがない。

教室で目が合っただけで、どきどきしてしまう人。

雨の日、自分のために傘を差し出してくれた人。

昨日、怖い女の子たちの前に立って、助けてくれた人。


『俺、藤沢みたいな人、好きだな』


あの声が、頭の中によみがえった。


「……永井くん?」


声になったかどうかも、わからなかった。

あの歌声が。

もう一度聴きたいと願っていた、あの声が。

永井くんの声だったなんて。


「……っ!」


扉から手を離す。

気づかれたらどうしよう。

こんなところで、勝手に歌を聴いていたなんて。

ユリは慌てて廊下を走り出した。

階段を下り、踊り場まで来てようやく足を止める。

壁に背中をつけると、膝の力が抜けた。

「……どうしよう」

胸がうるさい。

顔が熱い。

息を整えようとしても、なかなかうまくいかなかった。


傘をくれた永井くん。

昨日、頑張ってるって言ってくれた永井くん。

そして、ずっと気になっていた歌声。


全部、同じ人だった。


「……そんなの」

ユリは抱えていた本に顔をうずめた。

嬉しいのに、恥ずかしくて。

恥ずかしいのに、またあの声を聴きたくなる。


……ずるいよ。


こんなに何回も、好きになっちゃうなんて。


ユリはそっと顔を上げた。

廊下には、もう誰もいない。

誰にも聞こえないくらい小さな声で、つぶやく。


「……永井くんが、好き」


口にした途端、また胸がどきどきした。

それでも、今度は逃げずに、もう一度つぶやいた。


「……大好き」


――第一章 十二年越しの初恋 完


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