第4話 一本の傘
人生二周目、最初の朝。
俺は、全身筋肉痛だった。
「……いててて」
ベッドから起き上がろうとして、思わず顔をしかめる。
太ももが痛い。肩も痛い。なぜか腹筋まで痛い。
原因はわかっている。
昨日のテニス部だ。
十七歳の肉体なら余裕で動けると思っていたのだが、十二年ぶりの部活動は想像以上に過酷だった。
しかも、頭では昔の感覚を覚えているせいで、つい無茶をしてしまう。
「……二十九歳の脳みそ、マジで使えねえ」
おかげで階段を下りるだけでも一苦労だ。
人生二周目。
早くも肉体の限界を感じている。
*
「お前、歩き方おかしくね?」
教室に入るなり、タクミが笑った。
「うるせえ。筋肉痛だよ」
「昨日ちょっと走っただけだろ」
「ちょっとじゃねえだろ。あのメニュー考えたやつ絶対おかしいって」
「いつもやってんじゃん」
そうだった。
十七歳の俺にとっては日常でも、二十九歳の俺にとっては立派な拷問である。
「今日も部活来るよな?」
「……雨降らねえかな」
「お前、昨日から急に下手になったよな」
タクミが呆れた顔をする。
俺は窓の外を見た。
朝から空は曇っていた。
天気予報では、夕方から雨が降るらしい。
……頼む。
どうか降ってくれ。
そんな情けない願いを込めて空を眺めていると、教室の後ろから小さな笑い声が聞こえた。
藤沢ユリだった。
新田アカリと工藤シホに囲まれて、何か話している。
昨日と同じ光景。
でも、今日は少しだけ違って見えた。
……そういえば。
昨日、彼女と話したんだったな。
鞄の紐が机に引っかかっているのを教えてもらっただけ。
本当に、それだけだった。
なのに、なぜかその短いやり取りを思い出してしまう。
「……おい」
「ん?」
「また藤沢見てんの?」
「見てねえよ」
「いや、めっちゃ見てたじゃん」
「お前がうるさいからだろ」
「意味わかんねえ!」
タクミが笑う。
その声に気づいたのか、ユリがこちらを向いた。
目が合う。
俺は軽く手を上げた。
昨日の「また明日」の続きのつもりだった。
するとユリは、一瞬驚いた顔をしてから、小さく頭を下げた。
そして、すぐに視線を落としてしまった。
……あれ。
なんか嫌がられた?
いや、そんなことはないと思うけど。
十二年前も、ユリはこういう子だった。
おとなしくて、恥ずかしがり屋で。
でも、付き合ってからはよく笑ってくれた。
あの笑顔を見るのが、結構好きだった。
……まあ。
その笑顔を自分で失わせたんだけどな。
「サトル?」
「……なんでもねえ」
俺は教科書を取り出した。
今はまだ、焦らなくていい。
彼女と向き合う時間なら、これからいくらでもある。
そう思っていた。
*
昼休みを過ぎた頃から、空が暗くなり始めた。
午後の授業中には、窓の外にぽつぽつと雨粒が落ちてきた。
そして放課後。
「うわ、降ってきたな」
タクミが窓を見て言った。
「今日の部活どうなる?」
「中止じゃね?」
「いや、筋トレだってさ」
「……マジかよ」
神はいなかった。
結局、俺たちは屋内でみっちりトレーニングをさせられることになった。
昨日の筋肉痛に、今日の筋肉痛が上書きされていく。
……これ、明日ちゃんと歩けるのか?
ようやく部活が終わった頃には、外は土砂降りになっていた。
「やべえ、傘持ってきてねえ!」
タクミが昇降口で叫んだ。
「お前は?」
「持ってる」
俺は鞄から折り畳み傘を取り出した。
朝、母親に持たされたものだ。
「マジ!? 入れてくれ!」
「嫌だよ。男二人で相合傘とか」
「親友だろ!」
「こういうときだけ親友使うな」
「薄情者!」
結局、タクミは別の部員の傘に入れてもらい、先に帰っていった。
俺は一人、昇降口に残った。
外は相変わらずの大雨だった。
校庭には大きな水たまりができている。
春の夕立って、こんなに激しかったっけ。
「……ま、帰るか」
傘を開こうとした、そのときだった。
昇降口の端に、小さな人影が見えた。
藤沢ユリだった。
鞄を胸の前で抱え、雨の降る校庭をじっと見つめている。
「……藤沢?」
声をかけると、彼女はびくっと肩を揺らした。
「あ……永井くん」
「まだ帰ってなかったんだ」
「……うん」
ユリは少し困ったように笑った。
「傘、忘れちゃって……」
「マジ? この雨で?」
「……うん」
彼女の足元には、上履きから履き替えたばかりのローファー。
鞄を抱える手が、少し強く握られていた。
「誰かに入れてもらえば?」
「……みんな、もう帰っちゃったから」
「そっか」
俺は外を見た。
雨脚は強くなる一方だ。
しばらく待てば止むかもしれないが、いつになるかわからない。
「家、遠いの?」
「……歩いて、三十分くらい」
「うわ、結構あるな」
「……でも、大丈夫。もう少し待ってみるから」
ユリは笑った。
遠慮がちな、いつもの笑顔だった。
そのとき。
ふと、胸の奥に何かが引っかかった。
……あれ?
この光景。
どこかで見たことがあるような。
雨。
昇降口。
傘を持たずに立っているユリ。
……そうだ。
十二年前にも、こんな日があった気がする。
あのとき俺は、どうしたんだっけ。
記憶をたどろうとしたが、うまく思い出せなかった。
そもそも、十二年前の出来事をすべて覚えているわけではない。
授業の内容も、部活のメニューも。
誰と何を話したかなんて、ほとんど忘れている。
ただ。
今、目の前にいる彼女を、このまま置いて帰るのは嫌だった。
「……なあ、藤沢」
「……なに?」
俺は手に持っていた傘を差し出した。
「これ使いなよ。俺、走って帰るから」
「……え?」
ユリが目を丸くした。
「でも……永井くんは?」
「俺は大丈夫。部活で走るの慣れてるし」
いや、嘘だけど。
全身筋肉痛だけど。
「……でも、濡れちゃうよ?」
「どうせ汗かいてるし、帰ったら風呂入るから」
「……でも」
ユリは傘と俺の顔を交互に見た。
困ったように眉を下げている。
「……悪いよ」
「別に悪くないって」
「……だけど」
「じゃあ、明日返してくれればいいよ」
そう言って、俺は傘を彼女の手に持たせた。
ユリは、しばらくその傘を見つめていた。
「……本当に、いいの?」
「うん」
「……ありがとう」
消え入りそうな声だった。
俺は軽く笑った。
「じゃ、また明日!」
そして、そのまま雨の中へ走り出した。
「……あっ、永井くん!」
後ろから声が聞こえた。
振り返ると、ユリが昇降口から身を乗り出していた。
「……風邪、ひかないでね!」
俺は片手を上げた。
「おう!」
雨粒が顔に当たる。
制服が一瞬でびしょ濡れになった。
冷たい。
めちゃくちゃ冷たい。
しかも。
「……いってえええ!」
足が痛い!
筋肉痛の太ももに、全力疾走はあまりにも無謀だった。
何やってんだ俺!
格好つけて傘渡すとか!
普通に相合傘を提案すればよかったんじゃねえの!?
……いや。
それはそれで、今のユリには気まずいか。
そんなことを考えながら、俺は必死に走った。
背後で彼女が何を思っていたのかなんて、知る由もなかった。
*
翌朝。
「お前、風邪?」
教室に入るなり、タクミが顔をしかめた。
「……ちょっと寒気がする」
「だから昨日、傘あったのになんで濡れて帰ったんだよ」
「……いろいろあんだよ」
「意味わかんねえ」
俺だって意味がわからない。
十二年ぶりに高校生へ戻ってきて、二日目で風邪をひきかけている。
先が思いやられる。
席に座り、ティッシュで鼻をかんだ。
すると。
「あの……永井くん」
顔を上げると、ユリが立っていた。
両手で何かを大切そうに持っている。
昨日貸した折り畳み傘だった。
「……これ、ありがとう」
「ああ、全然いいよ」
傘を受け取ろうとして、少し驚いた。
綺麗に畳まれた傘には、小さなリボンが結ばれていた。
「……なにこれ?」
「……あっ」
ユリの頬が赤くなる。
「その……間違えないように、目印をつけて……」
「へえ」
よく見ると、小さな白いうさぎが描かれたリボンだった。
「可愛いじゃん」
「……!」
ユリがびくっとした。
「あ、いや、リボンが」
「……う、うん」
ますます顔が赤くなる。
……なんか変なこと言ったか、俺。
「昨日、ちゃんと帰れた?」
「……うん」
「そっか。よかった」
「……永井くんは?」
「ん?」
「……風邪、ひかなかった?」
「全然!」
嘘である。
めちゃくちゃ鼻水が出る。
「……本当?」
「本当本当」
「……よかった」
ユリは、ほっとしたように笑った。
そして、少しだけ俯く。
「……あのね」
「うん?」
「……昨日、本当に嬉しかった」
「え?」
「……傘、貸してくれて」
彼女は傘の持ち手を、最後にもう一度そっと撫でた。
「……ありがとう」
その声が、やけに真剣だった。
俺は少し照れくさくなって、頭をかいた。
「そんなの気にしなくていいよ」
「……え?」
「困ってたら普通に貸すって。また何かあったら言ってよ」
そう言って笑うと、ユリは黙って俺を見つめた。
大きな目が、少しだけ揺れている。
「……うん」
やがて彼女は、ゆっくりと頷いた。
「……ありがとう、永井くん」
その笑顔を見て、俺も少し嬉しくなった。
昨日の筋肉痛も、今朝の鼻水も。
まあ、悪くなかったかな。
そんなふうに思った。
「……サトル」
ユリが席に戻ったあと、タクミが肘で小突いてきた。
「お前、藤沢と仲良くね?」
「そうか?」
「昨日なんかあった?」
「別に。傘貸しただけ」
「へえー」
タクミがニヤニヤする。
「お前、意外とやるじゃん」
「何がだよ」
「いやぁ、青春だねえ」
「うるせえな!」
俺はタクミの肩を小突いた。
すると。
「……へっくし!」
盛大なくしゃみが出た。
「ぶははは! お前マジで風邪ひいてんじゃん!」
「うっせえ!」
教室に笑い声が響く。
俺は鼻をすすりながら、机に突っ伏した。
まったく。
人生二周目って、もっと格好いいものだと思っていた。
でもまあ。
ユリと普通に話せるようになったのは、悪くない。
昨日より、ほんの少しだけ。
彼女との距離が近づいた気がした。
そのくらいにしか、思っていなかった。
あの日、一本の傘を渡したことが。
彼女にとって、どれほど大きな出来事だったのか。
俺が本当の意味で知るのは、ずっと先のことになる。




