第3.5話 幕間 名前も知らない、君の歌
放課後の校舎は、少しだけ静かだった。
遠くから、運動部の掛け声が聞こえてくる。
藤沢ユリは、図書室で借りた本を胸に抱え、一人で廊下を歩いていた。
今日はアカリもシホも用事があるらしく、先に帰ってしまった。
一人で帰るのは、別に嫌いじゃない。
誰かと話すのは楽しいけれど、こうして静かな廊下を歩く時間も、結構好きだった。
階段を下りようとした、そのとき。
ぽろん。
どこからか、ギターの音が聞こえてきた。
「……あれ?」
ユリは足を止めた。
音がするのは、廊下の奥。
音楽室の方だった。
誰かが練習しているのかな。
そう思って歩き出そうとしたとき。
歌声が聞こえた。
「……っ」
思わず、振り返る。
男の子の声だった。
少し高くて、優しくて。
それでいて、サビになると驚くほど力強く伸びる。
……この声。
ユリは、思わず音楽室の方へ歩き出していた。
大好きなバンドのボーカルに、よく似ていた。
もちろん、まったく同じ声ではない。
でも、歌い方も、声の伸び方も。
びっくりするくらい、似ていた。
「……すごい」
小さくつぶやく。
しかも、歌っているのはユリの大好きな曲だった。
何度も聴いたことがある。
歌詞だって、ほとんど覚えている。
なのに。
どうしてだろう。
いつもイヤホンで聴いているときとは、何かが違った。
胸の奥が、きゅっとなる。
気がつけば、音楽室の前まで来ていた。
扉は閉まっている。
中の様子は見えなかった。
でも、歌声ははっきりと聞こえてくる。
ユリは少し離れた壁際に立ち、そっと耳を傾けた。
……上手だなぁ。
ギターも、歌も。
大好きな曲なのに、なんだか別の曲みたい。
もっと聴いていたい。
そう思った。
曲が終わりに近づくにつれて、少しずつ寂しくなっていく。
そして。
最後のギターの音が、静かに消えた。
「……あ」
終わっちゃった。
ユリはしばらく、その場を動けなかった。
胸が、まだどきどきしている。
中にいるのは、誰なんだろう。
音楽の先生かな。
でも、声は若かった気がする。
もしかしたら、同じ学校の男の子かもしれない。
……聞いてみようかな。
ユリは、そっと扉に近づいた。
手を伸ばしかけて、止まる。
知らない人に突然話しかけるなんて。
そんなの、できるわけない。
もし、変な子だと思われたら。
それに、練習の邪魔をしたら悪いし。
「……やっぱり、いいや」
ユリは小さくつぶやいた。
もう一度だけ扉を見つめてから、ゆっくりと歩き出す。
階段を下りる間も。
靴を履き替えるときも。
校門を出てからも。
あの歌声が、ずっと耳に残っていた。
*
翌日の放課後。
ユリは、また音楽室の前を通っていた。
本当は、いつも使う階段とは反対側だった。
でも。
昨日の歌声が、どうしても気になってしまった。
……今日も、いるかな。
廊下を歩く。
音楽室が近づいてくる。
けれど、何も聞こえなかった。
「……そっか」
少しだけ、肩を落とす。
まあ、そうだよね。
毎日いるわけじゃないだろうし。
昨日だって、たまたまだったのかもしれない。
ユリは自分にそう言い聞かせて、階段へ向かった。
その次の日も。
また、その次の日も。
気がつけば、音楽室の前を通るようになっていた。
けれど、あの歌声が聞こえてくることはなかった。
一度だけ。
ほんの数分、聴いただけなのに。
どうして、こんなに気になるんだろう。
自分でも、よくわからなかった。
*
「ユリー! 早くー!」
昇降口からアカリの声が聞こえる。
「……あっ、うん!」
ユリは慌てて靴を履き替えた。
外ではアカリとシホが待っていた。
「遅いよー。何してたの?」
「……ごめんね。ちょっと寄り道してて」
「寄り道?」
「……うん」
「どこ行ってたの?」
「……えっと」
ユリは少し迷った。
別に、秘密にするようなことじゃない。
ただ、誰かの歌を聴いただけ。
それだけなのに。
なんとなく、話すのが恥ずかしかった。
「……内緒」
「えー! 何それ!」
アカリが大げさに声を上げる。
「ユリが内緒とか珍しくない?」
「……そ、そんなことないよ」
「あるよ! ねえシホ?」
「まあ、ユリにも秘密くらいあるでしょ」
シホが笑う。
「ほら、帰ろ。暗くなっちゃうよ」
三人で並んで歩き出す。
校庭からは、運動部の掛け声が聞こえてきた。
遠くで、テニスボールを打つ音がする。
ユリは何気なく、校舎を振り返った。
二階の端にある、音楽室。
窓は閉まっている。
今日も、あの歌声は聞こえなかった。
「……ユリ?」
「……えっ?」
「またぼーっとしてる!」
「……ご、ごめん」
アカリが不思議そうに首を傾げる。
「何かいいことでもあった?」
「……ううん」
ユリは小さく首を振った。
そして、もう一度だけ音楽室を見上げる。
あの歌声。
また、聴けたらいいな。
今度は、誰が歌っているのか聞いてみたい。
できれば。
……もう一曲くらい、聴いてみたいな。
そんなことを思いながら、ユリは二人の後を追いかけた。




