第九話:うさぎの前に現れた白鳥
「……嘘だろ」
蒼成学園の廊下、玲央の喉が微かに震えた。
教室の入り口。そこにいたのは、昨夜の檻の中で「完璧な正解」として座っていた少女――白鳥麗華だった。
「皆様、ごきげんよう。本日よりこちらのクラスに編入することになりました、白鳥麗華ですわ」
教壇に立つ麗華の姿は、スポットライトを浴びる《《プリマドンナ》》のように神々しい。
しかし、その微笑みの裏側で、彼女の心は昨夜の「初めまして」という冷酷な五文字に切り刻まれたままだった。
彼女の視界が、一瞬だけ数年前の記憶へと飛ぶ。
◇◇◇
(回想)
それは、息の詰まるような財閥同士のパーティーだった。
まだ幼かった麗華は、厳しい両親の言いつけ通り、人形のように椅子に座り、大人たちの退屈な社交を眺めていた。
「……外、行くか?」
声をかけてきたのは、同じように所在なげに立っていた少年――玲央だった。
彼は麗華の手を引くと、見張りの目を盗んでバルコニーへと連れ出した。
「ほら、これ。あんな高級なシャンパンより、こっちの方が美味いぞ」
そう言って差し出されたのは、パーティー用の缶ジュース。
「お嬢様なんて演じてなくていいよ。ここでは、ただの子供だろ?」
屈託なく笑う玲央の姿。
厳しい教育に縛られていた麗華にとって、それは人生で初めて触れた「自由」そのものだった。
「わたくし……また、貴方に会えますかしら」
「さあな。でも、お前がそのままでいられるなら、またどっかで会えるんじゃねーの?」
あの日。玲央がジュースの空き缶を無造作に放り投げた瞬間、麗華の止まっていた時間は動き出したのだ。
◇◇◇
(現在)
「……玲央様、またお会いできて光栄ですわ」
麗華は、玲央の隣に座っていた「それ」に視線を止めた。
白姫うさぎ。昨夜、玲央が夜景の向こうに求めていた「雑音」の正体。
「あら、玲央様。……お隣にいらっしゃるのは、どこのお茶菓子かしら? 随分と、……庶民的な香りが致しますのね」
麗華が優雅に歩み寄る。
一歩ごとに、学園の空気が「本物」の財力と気品に塗り替えられていく。
「なっ……! お、お茶菓子!? ちょっと、失礼じゃない!」
うさぎの左眉がピクリと跳ね上がる。
うさぎは本能的に察した。目の前にいるのは、今まで戦ってきたどの「自称・金持ち」とも違う、圧倒的な強者だ。
「わたくしは白姫うさぎ! 麗華様……だっけ? 悪いけど、安物の茶菓子と一緒にしないでくれる? わたくしは、噛めば噛むほど味が出る……そう、特売のスルメみたいな女なんだから!」
「ふふ、面白い方。……玲央様、わたくし、この学園がとても気に入りそうですわ」
麗華は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、うさぎの正面に座る。
麗華の瞳にあるのは、単なるマウントではない。
それは、自分が何年もかけて磨き上げた「完璧」を、特売チラシ一枚で掻っ攫っていった泥棒への、絶望に近い殺意だった。
(何よあの子……! 私がどれだけ、玲央様の特別になりたくて努力してきたか、知りもしない癖に……!!)
◇◇◇
昼休み。学園のティーサロン。
麗華は自ら持ち込んだ最高級の茶葉を広げ、うさぎを呼び出す。
「うさぎさん、お座りなさい。わたくしの血統のように透き通った、このダージリンを淹れて差し上げますわ」
しかし、うさぎは怯まない。
「……いい香りね。でも、お湯の温度がちょっと高いんじゃない? 光熱費がもったいないから火力を絞って鍛えた、わたくしのセンサーによれば……あと三度下げるのが正解よ!」
「……っ!」
完璧な作法を、まさかの《《節約術》》で上書きされ、麗華の頬が引きつる。
二人の間に火花が散る中、玲央が無表情に割って入った。
「……そこまでにしろ、白鳥。ここは、お前の庭じゃない」
玲央はそう言い捨てると、麗華の差し出したティーカップには目もくれず、うさぎの腕を無造作に掴んで歩き出した。
「行くぞ、白姫。……今日は、あそこのスーパーが卵のタイムセールだったはずだ」
「えっ、ちょっと御堂君!? 引っ張らないでよ! ……麗華さん、悪いけど卵だけは譲れないから。失礼するわ!」
遠ざかっていく、二人の「日常」。
麗華は、一人残されたサロンで、自分の完璧に淹れた紅茶が冷めていくを見つめていた。
彼女の脳裏には、あの日、一緒にジュースを飲んだ少年の笑顔がこびりついている。
なのに、今の彼はその笑顔を、あんな「スルメ」のような女に向けている。
(……どうして? 私はこんなに完璧に、貴方の理想になったのに……。どうして、あんな雑音ばかりを欲しがるの……!?)
麗華が握りしめた扇子が、メキリと音を立てる。
「……絶対に、奪い返してみせますわ。……御堂玲央様」
(第九話 完)




