第八話:うさぎと凍りついた麗華の初恋
「親父……ハメやがったな……!!」
心の絶叫を無表情の下に押し殺し、玲央は白鳥麗華の正面に腰を下ろした。
対等な家格同士の会食。
父・厳一郎と白鳥代表が、投資や経済情勢という名の「前菜」を味わう傍らで、麗華は音もなくナイフとフォークを操り、玲央に視線を投げた。
しかし、玲央のその険しい視線を、麗華は「情熱的な再会」への驚きだと勘違いしていた。
彼女はテーブルの下で、ドレスの裾をぎゅっと握りしめていた。
(玲央様……。ようやく、ようやくお会いできましたわ……!)
幼い日の、あの息の詰まる財閥パーティー。
厳しい教育に縛られ、人形のように座っていた自分を連れ出し、「他人の目なんて気にするなよ」と笑ってジュースを分けてくれた少年。
あの日、麗華の止まっていた時間は動き出し、以来、彼女の人生は「玲央にふさわしい女になること」だけを目標に捧げられてきたのだ。
麗華は、高鳴る鼓動を完璧な微笑みの下に隠し、凛とした声で口を開いた。
「白鳥家が一人娘、白鳥麗華と申します。……玲央様。お初にお目にかかります」
期待に胸を膨らませ、玲央の反応を待つ麗華。
「ああ、お前のことは聞いているよ」という親密な言葉か、あるいは「あの時の……!」という驚きか。
しかし、玲央から返ってきたのは、ガラス細工のように冷たく、完璧な「社交辞令」だった。
「御堂玲央です。……初めまして、白鳥麗華さん。噂通りの、素晴らしい気品をお持ちの方ですね」
――初めまして。
その五文字が、麗華の耳の中で爆音のように響いた。
(……初めまして? 今、玲央様は……『初めまして』とおっしゃったの?)
麗華の顔から、さぁーっと血の気が引いていく。
彼女が何年も磨き続け、守り続けてきたあの日の「誓い」は、玲央にとっては数あるパーティーの中の、取るに足らない「雑音」の一つに過ぎなかったのだ。
「玲央様。……今夜のメニュー、メインはシャトーブリアンのローストですわ。このお店の牛は、血統書が三代前まで遡れるほど厳選されているそうですの」
麗華は震える唇を噛み切り、微笑みを貼り直して言葉を繋いだ。
その声は甘く、それでいて逃げ場を塞ぐような響きを持っていた。
「血統、ですか。……興味深いですね」
玲央は事務的に答え、運ばれてきた肉を口に運ぶ。
舌の上でとろける最高級の肉。だが、玲央にはそれが砂のように味気なかった。
(……血統書付き、ね。あいつならきっと、これを見て『このお肉一枚で、半額の牛こま切れ肉が何キロ買えるかしら!』って青ざめるんだろうな)
玲央の脳裏にあるのは、昨日出会った「偽お嬢様」――うさぎの、あの野良猫のような、たくましくも温かい瞳だ。
うさぎは「二十円引き」のシールが貼られたパンを、まるで宝物でも見つけたかのような輝く瞳で手に取っていた。
この豪華なダイニングには存在しない、強烈な《《生のエネルギー》》。
「玲央様? あまり食が進んでいらっしゃらないようですけれど。……お口に合いませんでしたかしら?」
麗華が首を傾げる。その仕草一つとっても、訓練された完璧な美しさだ。
「……いえ。少し、現実味に欠ける味だと思っただけです。……麗華さん。貴方は、スーパーのチラシを……その、読み込んだことはありますか?」
一瞬、その場の空気が凍りついた。
麗華は一瞬だけ呆気に取られたような顔をしたが、すぐに優雅な笑みを深めた。
「……チラシ? ふふ、玲央様ったら。そんな冗談、わたくしの教育係が聞いたら卒倒してしまいますわ。……そのようなものは、わたくしたちが目にする必要のない『雑音』ですもの」
その言葉を聞いた瞬間、玲央の中で何かが決定的に冷え切った。
麗華という「正解」は、うさぎという「不純物」を許さない。
(……あいつなら、この凍りついた空気さえ、笑い飛ばしてくれるんだろうな)
玲央の無意識の思暮が、さらなる冷気となって麗華を突き放す。
(……あいつに会いたい。この豪華な檻を壊せるのは、麗華の言う『雑音』だけだ)
「……いいえ。……何でもありませんわ」
麗華は微笑みを貼り直したが、その瞳の奥には、絶望にも似た激しい炎が灯る。
麗華は悟った。
玲央の瞳の中に、今の自分は映っていない。
そして、その瞳を奪っている「何か」が、この街のどこかに存在しているということを。
「……玲央様。わたくし、明日から貴方の学園へ転入することにいたしましたわ」
「……え?」
「わたくしたち、これから嫌というほどお会いすることになりますのよ? ……《《覚悟》》しておいてくださいませ」
鈴を転がすように美しく、けれどそこには執念とも呼べる、重い愛憎がこもっていた。
玲央を「王子様」として神格化してきた麗華の初恋が、今、歪んだ執着へと変貌していく。
(第八話 完)




