第三話「うさぎと黄昏のスーパー大戦」
「ちょっとそこ退いて!」
「隙ありッ!」
夕暮れ時のスーパー「アポロ」。
タイムセールの開始を告げるベルの音は、うさぎにとって《《聖戦》》の火蓋だった。
校門を出た瞬間にブレザーのボタンを外し、袖をまくり上げ、お姫様の仮面を脱ぎ捨てた彼女は、今や一介の「戦士」と化していた。
標的はただ一つ、ワゴンの中に鎮座する「半額シール」の貼られた鶏肉パックだ。
(これさえ……これさえ手に入れば、今夜は予算内で豪華なカレーが作れる……!)
周囲はベテラン主婦たちの怒号と熱気が渦巻く阿修羅場。
うさぎは人混みのわずかな隙間を突き、獲物を狙う鷹のようにワゴンへダイブした。
しかし、執念で最後の一パックに指をかけたその瞬間、背後から突き飛ばされた主婦の圧力に耐えきれず、うさぎの体は大きくよろめいた。
「あだっ……!」
掴んでいたはずのパックが手から滑り落ち、タイルの床を無情に滑っていく。
あぁ、あたしの、白姫家の今夜のメインディッシュが!
パックが止まったのは、喧騒から少し離れた場所に立つ、一人の男子生徒の足元だった。
泥一つつかない清潔なスニーカーの前で、無様に裏返って転がる鶏肉。
うさぎが這いつくばったまま、恐る恐る顔を上げると――。
そこには、エコバッグを片手に、死ぬほど冷ややかな目で自分を見下ろしている御堂玲央がいた。
「……何やってんだ、お前」
「な、なっ……!? み、御堂、君……っ?」
玲央は溜息をつくと、足元に転がった肉をひょいと拾い上げ、呆然としているうさぎに差し出した。
「ほらよ。……必死だな、白姫」
その一言が、うさぎの心に鋭いナイフのように突き刺さる。
ボサボサに乱れた前髪、膝についた埃、臨戦態勢剥き出しの今の無様な姿。
(見られた! よりによって、あいつに! 終わった、あたしの学園生活、完全に終わったわ……!)
うさぎは奪い取るように肉をひったくると、真っ赤な顔のままレジへ突進した。
パニックになりながらも、しっかり「半額」であることを確認して会計を済ませるあたりが、彼女の腹黒いまでの現実主義だった。
そのまま玲央が声をかける間もなく、脱兎のごとくスーパーを飛び出した。
◇◇◇
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
息を切らして玄関を開け、リビングへ転がり込む。
「あ、お姉ちゃんだ! おかえりー!」
「お姉ちゃん、変な顔ー!」
隼斗と小花が駆け寄ってくるが、今のうさぎには返す言葉もない。
(明日、どんな顔して学校に行けばいいのよ……『鶏肉おばさん』とかあだ名をつけられたらどうしよう……!)
震える手で、乱れた前髪を直そうと制服の内ポケットに手を入れた、その時だった。
「……ない」
いつもそこにあるはずの、銀の冷たい感触がない。
おばあちゃんの形見、銀のコンパクト。
「嘘……嘘でしょ……?」
スーパーでの《《社会的死》》に続き、唯一の心の拠り所まで失った。
うさぎは力なく床に膝をつくと、なりふり構わずリビングを這いずり回り始めた。
「どこ!? どこにあるのよぉ!」
制服のスカートを床に擦りつけ、四つん這いになってソファの下に顔を突っ込む。
埃を被るのも構わず、お尻を突き出してベッドの隙間をまさぐり、さらに脱ぎ捨てたストッキングを裏返し、ゴミ箱の中までひっくり返す。
(あれは、おばあちゃんが『どんな時でも自分を失わないように』ってくれた、あたしの魔法の道具なのに……!)
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、一心不乱に床を這う姉の姿を、隼斗と小花は引き気味に、呆然と見つめていた。
「お姉ちゃん……なんか、すごい格好になってるよ? お尻、丸見えだよ?」
「……うるさいわね! 鏡よ! あたしの鏡がないのよ!」
結局、鏡は見つからなかった。
絶望の淵に沈みながらも、弟妹の「お腹すいた」攻撃に抗えず、うさぎはよろよろと台所へ立った。
◇◇◇
制服のスカートの下にジャージを履き込み、裾をたくし上げた「主婦モード」。
髪はほどけかけ、適当な輪ゴムで一束にまとめただけのボサボサ頭だ。
鼻を真っ赤にして、涙を拭ったティッシュを口に咥えたまま、魂の抜けた手つきで玉ねぎを刻む。
(鏡もなくて、あいつにも見られて……もう、いい大学とか玉の輿とか、全部どうでもいいわ……)
包丁の音だけが、虚しく響く。
それは学園の「お姫様」とは一ミリも重ならない、あまりにも泥臭く、必死な「生活者」の姿だった。
「二人とも……できたわよ……」
死んだ魚のような目で、食卓にカレーを並べる。
「わーい! カレーだ! お姉ちゃん、今日のはお肉がいっぱいだね!」
「……しっかり食べなさい。……お姉ちゃん、明日からしばらく、旅に出るから」
「どこに?」
「……誰もあたしを知らない、遠いエデンへ……」
スプーンを口に運ぶ気力もなく、うさぎが机に突っ伏した、その時だった。
――ピンポーン。
「……誰よ、こんな夜に。……はい、ただいまぁ……」
半分幽霊のような足取りで、うさぎが玄関のドアを開ける。
そこには、自分を地獄に突き落とした「狼」が、今度は鏡を手に立っていたのだ。
(第三話 完)




