第91話 ただ、そのように、なりたくないだけ
「あれ?アコちゃん、今日はヒデミちゃんと一緒じゃないん?」カガミが首をかしげた。
練習室に入ってきたアコは、いつものようにキーボードケースを引きずっていた。でも、その後ろには誰もいなかった。彼女は「……うん」とだけ言って、自分の定位置にキーボードを置き始めた。背中で「これ以上聞くな」と言っているようだった。
カガミはハナルと目を合わせた。ハナルも首を振る。わからない。
十五分後、ヒデミが一人でやってきた。ベースケースを肩に担いで、だらりとした足取りで。入ってくるなり、アコには目もくれず、自分の場所にベースを置いた。
「おそいで。」キリカが言う。
「電車遅れた。」
「そうか。」
それだけの会話。でも、誰もが気づいていた。アコとヒデミの間に、見えない壁があることを。二人は互いに見ない。話さない。ただ、それぞれ自分の準備をしている。
セイナがためらいながら口を開いた。「あの、今日は……何かありましたか?」
「別に。」アコが短く答えた。
「何もない。」ヒデミも同じタイミングで言った。
その声が、あまりにも同時だったので、逆に空気が張り詰めた。カガミは何か言おうとして、やめた。
練習が始まった。最初の曲は『Adventure』。軽快なはずの曲が、なぜか重い。アコのキーボードは正確だった。いつも通り、きれいな音。でも、どこか冷たい。それに重なるヒデミのベースは、低くて沈んでいて、いつもの“土台”の感じがなかった。二人の音が、ずれている。違う方向を向いている。
カガミが途中で止めた。「ちょっと待って、なんか合ってへん。」
「……」アコは何も言わず、キーボードの音量を少し下げた。
「そういう問題やない。」カガミは言いかけて、結局「……もう一回、いこうか」とだけ言った。
三曲目をやり終えた時、もう誰も口を開かなかった。うまくいっていないことは明らかだった。アコはいつもより顔を上げず、ヒデミはいつもより壁にもたれている時間が長い。二人の間に、言葉はもちろん、視線すら交わしていない。
休憩時間、ハナルが勇気を振り絞って、ヒデミのそばに行った。「あ、あの、ヒデミさん。今日、アコさんと、何かありました?」
ヒデミはスマホをいじりながら、「ない」とだけ言った。でも、その口調がいつもの「めんどくさい」とは違う。どこか、尖っている。
一方、アコは一人で廊下に出て、壁にもたれていた。セイナがそっと近づいた。
「アコさん。」
「……なに。」
「ヒデミさんと、喧嘩したんですか。」
アコは一瞬黙って、それから小さくため息をついた。「……別に。ただ、言いたいことが言えへんかっただけ。」
「言いたいこと?」
「……もういい。」
そのままアコは戻っていった。セイナはその後ろ姿を見送って、何か考えるように目を細めた。
二時間経っても、二人の緊張は解けなかった。アコはキーボードの音を出すたびに、少しずつ前に出る。でも、ヒデミのベースは後ろに引く。まるで、追いかけているのに追いつけない、避けているのに避けきれない、そんな距離感だった。
「今日は、ここまでにしよ。」キリカが言った。
誰も反対しなかった。片付けを始める。アコがキーボードのケーブルを外していると、ヒデミが初めて口を開いた。
「アコ。」
「……なに。」
「帰るで。」
「知ってる。」
その短いやりとりだけで、部屋の空気がまた凍った。カガミが間に入ろうとしたが、キリカが目配せして止めた。今はまだ、時期じゃない。
アコが先に練習室を出た。ヒデミはそれを追わない。自分もゆっくりと片付けを終わらせて、最後にドアを閉めた。その背中は、いつものだらしなさの奥に、何か重いものを抱えているように見えた。
「……どうする?」カガミが残された四人に聞いた。
「ちょっと、話聞いてみようか。」セイナが言った。
「でも、二人とも口閉ざしてるしな。」キリカが言う。
「それでも、やれることはある。」ハナルが、小さな声で言った。その声には、いつものどもりが少しだけ少なかった。
翌日。アコは一人で来た。ヒデミは来なかった。連絡もない。
「ヒデミちゃん、今日は?」カガミが聞くと、アコは「知らん」とだけ答えた。
練習は、昨日よりさらに重かった。アコのキーボードは冷たく、正確すぎて、逆に感情が抜け落ちていた。カガミが曲を止めるたびに、アコは「ごめん」とだけ言って、また弾き直す。でも、同じ場所で同じようにずれる。
三十分後、ヒデミが突然現れた。息は上がっていない。いつも通りだ。でも、目の下にうっすらと影があった。
「遅い。」キリカが言った。
「寝坊。」
「ふうん。」
ヒデミは自分の場所にベースを置いた。アコはキーボードから手を離さなかった。でも、その指の動きが一瞬、止まった。
「……来たんか。」アコの声が聞こえた。
「来たで。」
「来んでもよかったのに。」
「そう言うなら帰るで。」
「……帰れ。」
その一言で、部屋の空気が凍った。カガミが間に入ろうとした時、ヒデミはすでにベースケースを閉めて、立ち上がっていた。
「ちょ、待って!」カガミが慌てて止める。
「待たへん。」
「ヒデミ!」
「……いいねん。どうせ、俺は何もできへん。」
ヒデミはそう言い残して、ドアを出て行った。バタンと閉まる音が、やけに大きく響いた。アコは、鍵盤の上に手を置いたまま、動かなかった。
「アコちゃん。」ハナルが小さく言った。
「……なんや。」
「ヒデミさん、最近お酒、飲んでるん?」
アコの指が、ピクッと震えた。何か言いかけて、やめた。でも、その反応だけで、みんなは察した。
その時、キリカが口を開いた。「……さっき、ヒデミがベースを置くとき、ちょっと手が震えてた。あれ、二日酔いの時によくなるやつや。」
カガミが眉をひそめた。「二日酔い?」
「あと、昨日の練習中、ヒデミが一回だけ壁に頭をぶつけてた。自分から。普通、そんなことせえへん。多分、頭痛がしてたんやろ。」
「……それだけ?」
「それだけやない。さっき、アコが『来んでもよかったのに』って言うた時、ヒデミの手が一瞬止まった。止まるときは、後悔しとる時や。あいつは、自分が間違ってるって気づいてても、認めるのが一番嫌いやから。」
「……」
「それと、もう一つ。」
キリカはアコの方を向いた。
「お前、さっき『帰れ』って言うた時、声が震えてた。お前がそんな風に怒るのは、相手が自分を大事にしてへん時だけや。それで、ヒデミが最近酒を飲んでるって話が出てきて、つながっただけや。」
「……それ、全部、あんたの推測やろ。」カガミが言った。
「推測や。でも、当たってると思う。」キリカはアコを見た。「な、アコ。当たってるやろ。」
アコはうつむいたまま、何も言わなかった。でも、それが答えだった。
「……最近、あいつ、毎晩のように飲んでる。」アコの声は小さかった。「最初はちょっとだけやった。でも、最近は缶の数が増えてて。注意しても、『気にしすぎ』って言われて。」
「それで喧嘩したんやな。」キリカが言った。
「……うん。」
アコの声が、少し震えていた。
「一緒に寝てる時も、酒の匂いがきつくて。うちが『やめてくれ』って言うと、『別にええやろ』って。それで、言い合いになって……お互い、頭にきて、それっきり。」
セイナが、そっとアコの隣に座った。
「アコさんが言いたかったことは、酒のことだけじゃなかったんですか。」
アコは顔を上げた。その目は、少しだけ潤んでいた。
「……あいつ、最近なんか、自分を大事にしてへんねん。酒だけやなくて、ご飯も適当やし、寝る時間もめちゃくちゃやし。あたしが隣におっても、何も言わんと、ただ横になってるだけ。それで、『大丈夫』って言う。」
「その『大丈夫』が、大丈夫じゃないって思ったんですね。」ハナルが言った。
「……うん。」
「それ、伝えたん?」
「……言うた。でも、あいつは『うるさい』って。『俺のことは放っといてくれ』って。」
その言葉には、怒りよりも、寂しさが滲んでいた。アコは、本当はヒデミを責めたかったわけじゃない。ただ、彼女の“無理してる”が心配だっただけだ。
「……うち、もう、何が正しいかわからんねん。あいつは『気にしすぎ』って言う。でも、うちは、気にしないわけにいかん。」
アコは、自分の手を見つめた。その指先が、わずかに震えていた。
その日は、練習を中断して、四人で話し合った。どうやって、この溝を埋めるか。でも、誰も答えを持っていなかった。
「ただ待つってのは?」ハナルが提案した。
「ヒデミは待たされるの、一番嫌いや。」キリカが言った。
「じゃあ、こっちから行く?」カガミが言った。
「行っても、また逃げるだけや。」キリカが言う。
「じゃあ、どうすりゃええねん。」
誰も答えられなかった。
「……とりあえず、アコさんには、今日はもう帰ってもらおう。」セイナが言った。
「うん。」カガミもうなずいた。「明日、また集まろう。」
アコは、無言で立ち上がった。ドアのところで、一瞬立ち止まった。
「……みんな、ごめん。」
それだけ言って、彼女は出て行った。
その夜、カガミがヒデミに電話をかけた。出ない。メッセージを送っても、既読はつかない。
「どうなってんねん。」カガミはスマホを机に置いた。
隣でハナルが、うつむいたまま言った。「……ヒデミさん、今、一番誰にも触れてほしくなさそうなんよ。」
「どうしてそう思うん?」
「あたしも、ああなる時があるから。」
ハナルの声は小さかった。でも、確かな重みがあった。自分が誰にも言えない苦しさを抱えた時、一番欲しいのは言葉じゃない。ただ、そばにいてほしい。でも、それを言えない。だから、突き放す。ハナルは、それがよくわかっていた。
「……じゃあ、どうすりゃええんや。」カガミが言った。
「……ただ、待つ。それしか、あたしには思いつかへん。」
その夜は、それで終わった。
次の日、練習室には、アコもヒデミも来なかった。カガミは二人にそれぞれ連絡を入れたが、返事はなかった。
「どうする?」キリカが聞く。
「わからん。」
「練習、どうする?」
「……やろう。二人がいなくても。」
四人で、急遽アレンジを変えて、音を合わせた。でも、いつもの倍以上の力がいる。埋められない空白が、ずっと重くのしかかっていた。
その時、セイナが言った。
「……ヒデミさん、昨日、何も食べてへんかもしれへん。」
「え?」カガミが顔を上げた。
「あの目、寝不足だけじゃなかった。多分、数日、まともに食べてへん。」
「そんなん……」
「アコさんも、気づいてたと思う。だから、余計に心配して、言い合いになったんや。」
キリカが、深く息を吐いた。「あの二人、似た者同士やな。」
「どういうこと?」ハナルが聞く。
「二人とも、自分のことは後回し。で、相手のことになると過保護。だから、お互いがお互いを心配して、でも、素直になれへん。」
「……それ、どういう意味?」カガミが眉をひそめる。
「つまり、今一番足りてないのは、『ご飯』や。」キリカが言った。
キリカは立ち上がって、バッグから財布を取り出した。
「ちょっと、コンビニ行ってくる。」
「何しに行くん?」
「……差し入れ。」
誰も反対しなかった。
キリカは外に出て、スマホを開いた。ヒデミのトーク画面を開く。
『今から行く。』
送信。既読がつかない。仕方ない、と彼女は歩き出した。
コンビニで、おにぎりとスポーツドリンク、それに、なぜかプリンを買った。アコが前に「これ好き」と言っていたのを思い出したから。
ヒデミの家に着いたのは、それから二十分後だった。インターホンを押す。返事がない。もう一度。ドアが開いた。ヒデミの顔が見える。目が真っ赤で、髪はぼさぼさだった。
「……なんや。」
「これ、やる。」
キリカは袋を差し出した。ヒデミはそれを見て、一瞬迷ったけど、受け取った。
「……ありがとう。」
「お前、飯食うてへんやろ。」
「……食うた。」
「嘘つけ。」
「……」
「お前が倒れたら、アコがもっと困る。それだけは、わかっとるんやろ。」
ヒデミは、何も言わなかった。でも、その手が、袋をぎゅっと握りしめた。
「……なんで、そこまでするんや。」
「……わからん。ただ、お前がいなくなるのが嫌やから。」
キリカは、それだけ言って、背を向けた。ヒデミはその後ろ姿を見送りながら、袋を開けた。おにぎりと、スポーツドリンクと、プリン。全部、アコが好きなものだった。
「……ばかやな。」
(From Dandy:
First of all, I want to apologize to everyone: I've been in a really bad state lately, and a bunch of bad things happened that really knocked me down and left me with no mood to update.)




