第92話 もう飲むなよ
「……ああ、くそ。」
ヒデミはベッドの上で、空になった缶を睨んでいた。三本目の缶を潰して床に転がした。部屋の中は酒の匂いで満ちていて、窓を開けようとも思わなかった。どうせ、外の空気を吸っても気分は変わらない。
大学のレポートが溜まっていた。〆切は来週。でも、手をつける気になれない。教育学部の課題はいつも堅苦しくて、自分の考えを押し込めるようなものばかりだ。「教師としての倫理」「生徒指導のあり方」——そんなもの、自分が教師になるとは思っていなかったから、なおさら響かない。元々、適当に大学に入っただけだ。将来のことなんて、まともに考えたことがなかった。
それなのに、周りは「先生になるんだろ?」と決めつける。ゼミの教授も、同じゼミの学生たちも、ヒデミが教育学部にいるというだけで、勝手に「将来は教壇に立つ人間」として見ている。ヒデミはそのたびに「はい」と適当に返事をして、心の中では「別に」と思っていた。
最近は、大学の友人たちと飲みに行くことも増えた。遊びのノリで、軽い気持ちで付き合っていた。でも、気づけば週に三、四回は誰かと飲んでいる。特に、同じゼミの男たちが「白石、いつも適当そうでいいなあ」と言って、酒を勧めてくる。断るのが面倒で、つい応じてしまう。その場は楽しい。酒を飲んでいれば、頭がぼんやりして、何も考えなくて済む。それが、今の自分には一番合っていた。
「……あの子たちも、もう寝たかな。」
スマホを見る。グループチャットには、カガミからの「明日の練習、何時にする?」というメッセージが届いていた。ハナルが「いつも通りでいいですか?」と返信している。セイナが「私は大丈夫です」と。キリカは既読だけ。アコからは何も来ていない。
アコ。
その名前を見ただけで、胸の奥がちくりと痛んだ。昨日のことを思い出す。
『帰れ』——アコのその一言が、まだ耳に残っている。言い過ぎたことはわかっている。でも、あの時はどうしても言い返せなかった。アコの目が、悲しそうだったから。責めているようで、でも違う。心配しているような、泣きそうな目だった。
「……気にしすぎや。」
そう呟いて、もう一度缶を手に取った。四本目の缶。冷蔵庫にはまだある。でも、もういい。このまま寝てしまえば、明日は何かが変わるかもしれない。そんな期待も虚しく、意識は次第に遠のいていった。
翌朝。目が覚めると、頭がズキズキしていた。枕元のスマホを手に取ると、アコからのメッセージが届いていた。『今日、ちょっと話したいことある。』既読をつけるのを迷って、結局つけてしまった。それから三分後、アコから電話がかかってきた。
「……もしもし。」
『……起きたんやな。』
「起きた。」
『今から行く。』
「……は?」
『待っといて。』
電話が切れた。ヒデミはしばらく天井を見つめて、それから重い体を起こした。顔を洗い、適当に着替えて、リビングで待っていると、十五分後にアコが来た。鍵を持っているので、いつものように勝手にドアを開けて入ってくる。
「……何の用や。」
アコは無言で、ヒデミの冷蔵庫を開けた。中から酒の缶を全て取り出して、テーブルの上に並べた。全部で十二本。空き缶は床に転がっている。
「昨日も飲んだんやろ。」
「……別に。」
「この数、今週だけで飲んだんや。」
「そんなに飲んでへん。」
「嘘つけ。」
アコの声は、震えていた。怒っているのか、悲しんでいるのか、それともその両方か。ヒデミはそれを見て、何も言えなかった。
「……何があったんや。教えて。」
「なんもない。」
「あんた、最近ずっとおかしい。練習も集中できてへんし、ご飯も適当やし、寝る時間もめちゃくちゃやし。それで『大丈夫』って言うんやろ。」
「大丈夫や。」
「大丈夫なわけないやん!」
アコの声が、大きくなった。ヒデミは顔をそらした。その時、アコの目が、机の上に置いてあった大学の書類を見つけた。教育実習の案内書。〆切は来週。
「……これ、何?」
「見てわからへんの。」
「教育実習の書類やん。なんでこんなに放置してるん。」
「めんどくさいから。」
「めんどくさい?」
「実習行く気ないし。」
「は?」
アコは、信じられないという顔でヒデミを見た。ヒデミは無表情で返す。
「教師になる気なんて、最初からあらへん。適当に大学入っただけや。それなのに、周りは『先生になるんだろ』って勝手に決めつけて、課題も実習も、何もかも押し付けてきよる。」
「……それで、酒に逃げとるん?」
「逃げてへん。」
「逃げてるやん。逃げてるから、こんなに飲んで、こんなに目が死んどるんや。」
「……うるさいな。」
「あんたが、これから先生になるって言うんやったら、そんなんでどうやって生徒を教えるつもりや。自分がしっかりせえへんのに、誰かに何かを教えられるわけないやろ。」
「教師になるなんて、一言も言うてへん。」
「でも、大学に入ったんやろ。教育学部に。だったら、卒業して免許取って、どこかの学校で働くのが普通や。それくらい、あんたもわかっとるはずや。」
「……普通が何や。」
「え?」
「普通が何やねん。なんでみんながそうやからって、俺もそうせなあかんねん。俺は自分の好きなように生きたいだけや。音楽やって、ベース弾いて、適当に食って寝て、それでええねん。」
「それだけ?」
「それだけや。」
「……それで、後悔せえへんの。」
「せえへん。」
「嘘や。」
アコの目が、真っ直ぐにヒデミを見つめた。
「あんたがそんな風に言うのは、自分を騙してるだけや。本当は、ちゃんとやらなあかんってわかってる。でも、やるのが怖いから、逃げてるだけや。」
「……違う。」
「逃げてる。自分の将来から、現実から、全部から。あんたは、自分に自信がないから、『どうせ俺なんて』って思てるやろ。」
「……」
「でも、それは違う。あんたは、ちゃんとできる人間や。ただ、今はそれが見えてへんだけや。」
「……もう言うな。」
「言うで。あんたが、本当のことを聞くまで。」
「言うな言うてるやろ!」
ヒデミは立ち上がった。その手が、机を叩いた。ガタンという音が部屋に響く。アコは一瞬驚いたように体を硬くしたが、それでも目をそらさなかった。
「……あんたのそういうとこ、嫌いや。」
その言葉は、静かだった。でも、確かにヒデミの胸に刺さった。
「俺もや。」
「……知っとる。」
アコはそれだけ言って、立ち上がった。ドアのところで、一度振り返った。
「今日は、もう帰る。」
「……ああ。」
「また明日。」
「……うん。」
アコがドアを閉めた後、ヒデミはその場に座り込んだ。静かになった部屋で、自分の鼓動だけが聞こえる。頭が痛い。目が痛い。心が痛い。
「……嫌い、か。」
その言葉が、一番響いた。大事な人に嫌いと言われて、どうして笑っていられるだろうか。彼女は床に落ちている空き缶を蹴飛ばして、壁に当てた。カンッという乾いた音が、虚しく響いた。
その頃、大阪。MOCAの練習室に四人が集まっていた。
「どうする?」カガミが腕を組んだ。
「今日も二人とも来ないのか。」キリカが壁にもたれる。
「アコさんには連絡しました。でも、『ちょっと休む』ってだけでした。」セイナが言う。
「ヒデミちゃんは、アコちゃんと喧嘩したみたいやな。」ハナルが言った。
「原因は?」キリカが聞く。
「アコさんが言うには、最近ヒデミさんが酒を飲みすぎてるらしい。それで、いろいろ言い合って、『帰れ』って言うて、それっきり。」
「……ヒデミが酒?」カガミが眉をひそめる。
「あいつがそんなに飲むなんて、聞いたことないで。」キリカも、難しい顔をした。
「どうやら、大学のことで悩んでるみたいです。」セイナが付け加えた。「アコちゃんが言ってたことを聞いた。教育学部の実習が近づいてて、自分は教師になる気がないのに、周りが勝手に将来を決めつけるのが嫌だって。」
「……なるほどな。」キリカが言った。
「わかる?」カガミが聞く。
「ああ。自分はこんなつもりじゃなかったのに、周りが勝手にレールを敷いてくる感じや。」キリカが言う。「俺も、あの家にいた時、全部決められてたから。」
「それで、酒か。」カガミは深く息を吐いた。「ヒデミちゃんらしいな。逃げる時は、一番楽な方に逃げる。」
「でも、それじゃ解決せえへん。」ハナルが言った。
「うん。なんとかせなあかん。」
セイナが手を挙げた。「……一つ、提案があります。」
「なんや。」
「私たちとアコさんとヒデミさんを、しばらく一緒に生活させてみませんか?」
「一緒に生活?」
「はい。近くに、アコさんのために部屋を借りて。もし彼女たちが一緒にいれば、自然と会話も生まれるかもしれません。ヒデミさんが一人で酒を飲むことも、減るかもしれません。」
「それ、いいアイデアやな。」カガミが言う。「でも、どこで?」
「和歌山で、借りられる家を探せます。」セイナは穏やかに言った。「私たちの家のいとこがかつて借りていた家で、以前のチャット記録を見てみると、かなり最近のことのよう。少し古いですが、数人で泊まるには十分な広さです。家主の連絡先を教えてもらえますか、聞いてみましょうか。」
「本当か!?」カガミの顔が輝いた。
「はい。すぐに確認します。」
セイナはスマホを取り出して、電話をかけた。短い会話の後、彼女が振り返る。
「大丈夫です。借りることができます。それから、アコさんとヒデミさんはもちろん、私たちも一緒に泊まりませんか。一緒に過ごすことで、ヒデミさんが楽になるかもしれません。」
「それ、ええな!」カガミが立ち上がる。「じゃあ、みんなで行こう!」
「アコさんは、来てくれるかな。」ハナルが心配そうに言う。
「行くしかないやろ。」キリカが言う。「あいつが、自分から来るのを待ってても仕方ない。こっちから動く時や。」
「それ、正しい。」
カガミがすぐにアコに電話をかけた。
「もしもし、アコちゃん?今から和歌山行くで。」
『は?』
「ヒデミちゃんのとこや。」
『……なんで。』
「みんなで泊まるねん。一週間。お前も来い。」
『……』
「来いや。一人で抱え込んでも、何も変わらへん。」
アコはしばらく黙っていた。そして、小さな声で言った。
『……わかった。』
次の日。和歌山の小さな一軒家に、六人が集まった。古いけど、掃除は行き届いて、窓からは緑が見える。リビングには大きなテーブルがあって、みんなでご飯を食べられる。
「よし、これから一週間、ここで生活するで!」カガミが宣言する。
「ヒデミさんは?」ハナルが聞く。
「呼びに行く。」キリカが立ち上がった。「一人でほっとくわけにはいかん。」
「……うちも、一緒に行く。」アコも立ち上がり、彼女に道を案内しようとした。キリカは振り返って彼女に微笑んだ。
「やっぱり心配なのね?」
「……は、もちろんや。」
「じゃあ、みんなで行こう。」
ヒデミの家のドアをノックする。返事はない。もう一度。ドアが開いた。ヒデミの顔が見える。目の下にはくっきりと隈ができていて、髪はぼさぼさだった。でも、酒臭いが少し弱い。昨日は後悔して飲まなかったから。
「……なんや。」
「来い。」キリカが言った。
「どこに。」
「みんな、もうおる。お前だけや。」
「……行かん。」
「行く。」
「行かん言うてるやろ。」
「行く。」
その押し問答が、しばらく続いた。最後にヒデミが折れて、仕方なく着いてきた。玄関をくぐると、リビングからアコの声が聞こえた。ヒデミの足が一瞬止まった。
「……アコ、君がおるんか。」ヒデミはドアの後ろを見た。顔を覆って泣いているアコを。
「おるで。」アコが言う。「逃げられへんで。」
ヒデミはため息をついて、リビングに入った。アコは窓際に立っていて、二人の目が合った。互いに何かを言いかけて、やめた。セイナが優しく言った。
「ヒデミさん、座ってください。今日からここで暮らします。まずは、ご飯です。」
「……飯?」
「はい。私たちが作ります。今日はカレーです。」
「……ああ。」
「それから、酒はここにはありません。冷蔵庫にはお茶と水と牛乳だけです。しばらくは、それで過ごしましょう。」
「……」
ヒデミは何も言わなかった。でも、一週間。それで、自分が変われるかどうかはわからない。でも、みんなが、そこまでしてくれるなら——と思った。アコが、その横顔を見つめながら、小さな声で言った。
「……勝手に決めんで。」
「あんたが来いって言うたんやろ。」
「言うたけど——」
「もう、ええねん。」ヒデミは顔を上げた。「一週間だけや。それで、どうにもならんかったら、その時は——その時に。」
その言葉には、諦めと、少しだけ希望が混ざっていた。アコはその顔を見て、何も言えなかった。
(From Dandy:
It's hard to face the future when you're not sure who you want to be. But sometimes, you don't have to face it alone.)




