第89話 まだ終わってないよ。チャチャ
試験最終日。午後四時。百合泉女子高等学校の校門前には、五人の姿があった。カガミは何度もスマホを確認し、キリカは壁にもたれてだらりとしている。ハナルは緊張した面持ちで校舎を見上げ、アコはヒデミの隣でおとなしく待っていた。
「遅いな。」キリカが言う。
「もうすぐ終わる時間やろ。」カガミがスマホの時計を見る。「たぶん、今頃最後の科目や。」
「セイナさん、大丈夫かな。」ハナルが小さな声で言う。
「心配せんでもええ。」ヒデミがだるそうに答える。「あいつは真面目やから。ちゃんとやってるやろ。」
「それもそうやな。」カガミがうなずく。
五人が待つこと十五分。校舎の入り口に、見慣れたシルエットが現れた。セイナだ。白いブラウスに紺のブレザー。スカートのひだはピシッと決まっている。髪はいつも通り後ろで一つに結い、表情は——暗い。
「セイナ!」カガミが手を振る。セイナはそれに気づいて、ゆっくりと歩いてきた。顔色が良くない。目の下にはうっすらとクマができている。
「お疲れ様。」カガミが言う。「どうやった?」
セイナは少し間を置いて、答えた。「……あまり、良くなかったです。」
「え?」
「最後の数学、思うように解けなくて。いつもならできる問題も、何故か頭に入らなくて。」
「そ、そんなことあるよな。」カガミが慌てて言う。「たまたま調子が悪かっただけやろ。」
「そうだといいんですけど。」
セイナはうつむいた。その横顔は、今までの彼女からは想像できないほど曇っていた。
「とりあえず、食べに行こう。」アコが優しく言う。「お腹空いたやろ。」
「……はい。」
六人は駅前のファミリーレストランへ向かった。いつもの席に座り、それぞれがメニューを開く。セイナは何も見ていない。ただ、窓の外をぼんやりと眺めている。
「セイナさん、何食べますか?」ハナルが聞く。
「……何でもいいです。」
「おすすめのパスタ、あるよ。」カガミがメニューを指さす。「オレ、それにするわ。」
「私もそれにしよう。」セイナは無表情で言った。
注文を済ませて、しばらくの沈黙。誰も口を開かない。カガミがキリカに目配せする。キリカは小さくため息をついて、口を開いた。
「セイナ。あんた、そんなに落ち込まんでええ。」
「そうですよ。」アコも続ける。「まだ結果が出たわけじゃないし。」
「でも——」
「でも、やない。」ヒデミがだるそうに言う。「お前は今まで頑張ってきた。それだけで十分や。」
セイナは顔を上げた。その目には、涙はなかった。でも、少しだけ赤くなっていた。
「……私は、親との約束を、守れなかったかもしれへん。」
「そんなこと——」
「もし、成績が落ちたら、バンドを辞めなあかん。」
その言葉に、全員が黙った。誰も何も言えなかった。
「そしたら、私は——」
「セイナ。」カガミが彼女の手を握った。「まだ決まってへんやろ。」
「そうですよ。」ハナルもうなずく。「結果が出るまで、わからないです。」
「……うん。」
セイナは小さな声で答えた。それ以上は何も言わなかった。
料理が運ばれてきて、皆で食べ始める。セイナはパスタを口に運ぶが、味がしないようだった。ただ、機械的にフォークを動かしている。カガミはその様子を見て、何か言おうとしたが、やめた。キリカも、アコも、ヒデミも、ハナルも——誰も、セイナにかける言葉が見つからなかった。
店を出て、それぞれ帰路につく。セイナは一人で電車に乗り、窓の外の景色を眺めていた。夕日が沈みかけていて、街全体がオレンジ色に染まっている。こんなに綺麗な夕焼けなのに、心は晴れない。
家に着いたのは、七時を回っていた。セイナは玄関のドアを開け、小さな声で「ただいま」と言った。リビングからは、テレビの音が聞こえる。両親はもう帰っているらしい。
「おかえり。」母の声。「ご飯、食べた?」
「はい。友達と。」
「そう。お風呂、沸いてるよ。」
「ありがとうございます。」
セイナは自分の部屋に向かおうとした。その時、父が声をかけた。
「晴奈。」
「……はい。」
「試験、どうやった。」
セイナはうつむいたまま、答えた。「……あまり、自信ありません。」
父は一瞬黙った。それから、「そうか」とだけ言った。セイナはそれ以上何も言わず、自分の部屋へ向かった。
部屋に入り、ドアを閉める。鍵をかける。カバンを床に置き、ベッドに座る。ギターケースが壁に立てかけられている。その横には、小さなぬいぐるみ——チャチャ。
セイナはチャチャを手に取り、抱きしめた。柔らかい。温かい。子どもの頃からずっと一緒にいる、唯一の友達。
「……チャチャ。」
声が、震えていた。
「私、また失敗したかもしれへん。お父さんとお母さんの期待に、応えられへんかった。」
チャチャは何も言わない。ただ、セイナの腕の中に収まっている。
「バンド、辞めなあかんかもしれへん。」
涙が、こぼれた。
「そしたら、みんなに会えなくなる。音楽も、できなくなる。」
チャチャのボタン目が、セイナを見つめている。
「どうしたらええんやろう。私、どうしたら——」
その夜、セイナはなかなか眠れなかった。布団の中で、天井を見つめる。チャチャを抱きしめたまま、朝を迎えた。
それから三日後。セイナのスマホが震えた。学校からの通知だった。試験結果の通知。セイナは画面を見つめたまま、なかなか開けられない。指が震えている。深呼吸を一つ。そして、タップした。
画面に表示された数字を見て、セイナは息を呑んだ。
——学年第一位。前回より十五点アップ。自己最高記録更新。
「え……?」
セイナは何度も画面を見直した。間違いではない。自分の名前と、クラスと、数字。全てが、正しかった。
その時、リビングから母の声がした。
「晴奈!お父さんも、郵便物見てるよ!」
セイナは慌てて立ち上がり、リビングへ向かった。父と母が、ソファに並んで座っている。手には、学校から届いた成績表。
「晴奈、これ——」
「見ました。」
セイナの声は、少し震えていた。
「今、スマホで確認しました。」
「すごいやん。」母が立ち上がって、セイナを抱きしめた。「一位やで。しかも、自己最高記録更新。」
「……うん。」
「頑張ったな。」父も口元を緩ませた。「おめでとう。」
「ありがとうございます。」
セイナはその場に立ったまま、両親を見た。父は少し照れくさそうに、新聞を広げた。母は嬉しそうに、キッチンへ向かった。
「ご飯、何がいい?なんでも作るで!」
「……何でも。」
「よし、じゃあ晴奈の好きなハンバーグにしよう!」
母は楽しそうに冷蔵庫を開ける。セイナはその背中を見つめながら、思った。『よかった。』——ただ、それだけ。
その夜、食卓を囲んで、三人で久しぶりにゆっくりと食事をした。父は黙ってハンバーグを食べ、母はセイナに次々と料理を勧める。セイナはそれを食べながら、何か言おうとして、やめた。
「晴奈。」
口を開いたのは、父だった。
「はい。」
「この間は、ちょっと言い過ぎたかもしれへん。」
セイナは顔を上げた。父は真剣な目をしていた。
「バンドのことを、遊びって言うたけど——」
「お父さん——」
「この前、お前たちのライブ、見たんや。」
セイナは息を呑んだ。
「ネットで。お前が教えてくれたから。」
「……そうだったんですか。」
「ああ。」父はうなずいた。「お前、楽しそうやった。」
「はい。」
「音楽をやってる時のお前は、家で勉強してる時と、全然違う。」
「……そうですか。」
「うん。お父さんは、間違ってたかもしれへん。」
父の言葉は、ゆっくりだった。
「お前に、自分の道を選ぶ自由を与えていなかった。それが、一番の間違いや。」
セイナは何も言えなかった。母も、黙って聞いている。
「お父さんとお母さんは、お前に『正しい道』を歩んでほしいと思てた。それが、お前のためになるって、信じてた。」
「……はい。」
「でも、違った。お前の幸せは、お前が決めることや。」
父はセイナを見た。
「これからも、バンドを続けていい。」
「——っ。」
「約束は、守れたからな。」
セイナの目から、涙がこぼれた。
「ありがとうございます。」
「礼なんていらん。」父は照れくさそうに頭をかいた。「それより、ご飯、冷めないうちに食べな。」
「はい。」
セイナは涙を拭って、ハンバーグを口に運んだ。温かい。心の中まで、染み渡る。
その夜、セイナは自分の部屋でチャチャを抱きしめていた。さっきまでの涙は、もう乾いている。代わりに、温かいものが胸の中に広がっていた。
「チャチャ。」
セイナは小さな声で言った。
「私は、やっぱりバンドを続けるよ。みんなと一緒に、音楽をやる。」
チャチャは何も言わない。でも、そのボタン目が、優しくセイナを見つめている。
「ありがとう。いつも、そばにいてくれて。」
セイナはチャチャをぎゅっと抱きしめた。それから、ベッドに横たわり、目を閉じた。窓の外では、月が静かに輝いている。
明日も、みんなに会える。音楽ができる。それが、何より嬉しかった。
翌日、MOCAの練習室。六人が集まっていた。セイナが到着すると、カガミがすぐに駆け寄った。
「セイナ!結果、聞いたで!一位おめでとう!」
「ありがとうございます。」
「すごいやん!しかも自己最高記録!」
「お、おめでとうございます。」ハナルも駆け寄る。
「セイナさん、頑張りましたね。」アコが微笑む。
「さすがやな。」キリカが言う。
「よかったな。」ヒデミがだるそうに言うが、口元は緩んでいる。
セイナはみんなを見渡した。このメンバーで、これからも音楽を続けていける。それが、何よりも幸せ。
(from Dandy:
Sorry everyone. I haven't been doing well lately.)




