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第88話 あなたのために

約束の時間は、午後二時。MOCAの入り口で、唯は立ち止まっていた。中に入れば、ユキがいる。カガミたちもいる。何を言われるのか、わからない。何を言えばいいのかも、わからない。それでも、足を踏み出した。ドアを開ける。階段を上がる。廊下を歩く。練習室の前で、深呼吸。

ノックをしようとした瞬間、ドアが内側から開いた。カガミだった。

「唯ちゃん、来たんや。待っとったで。」

「……はい。」

中に入ると、全員の視線が唯に集まった。キリカは壁にもたれて腕を組み、セイナはソファの端に座っている。アコとヒデミは並んでいて、ハナルは緊張した面持ちで立っていた。そして、ユキ。

ユキは窓際に立っていた。唯を見るなり、視線をそらした。何か言いかけて、やめた。カガミが唯の背中を押す。

「さあ、入って。」

唯はおずおずと中に入る。カガミがドアを閉めた。カチリという音が、やけに大きく聞こえた。

「唯さん、座ってください。」セイナが自分の隣をポンポンと叩く。唯は小さくうなずき、そこに座った。

しばらくの沈黙。誰も口を開かない。時計の秒針が進む音だけが、規則正しく響いている。

「……じゃあ、始めよか。」カガミが口を開いた。「唯ちゃん。今日は、ユキが話したいことがあるって。」

唯は顔を上げた。ユキを見る。ユキはうつむいたまま、動かない。

「ユキ。」カガミが促す。

ユキは深く息を吸った。そして、ゆっくりと顔を上げた。その目は、少しだけ赤かった。

「……唯。」

「なに。」

「この間は、ごめん。」

唯は何も言わなかった。ユキは続ける。

「殴ったこと。それから、今までずっと——あなたに甘えてきたこと。全部、謝る。」

「……うん。」

唯の声は、小さかった。怒っているのか、悲しんでいるのか、それとも——わからない。

「唯。」

「なんや。」

「私、あなたに言わなきゃいけないことが、たくさんある。」

ユキは一歩、前に出た。

「今まで、あなたのことを、当たり前やと思てた。あなたがいてくれるのが、当たり前。あなたが私の言うことを聞くのが、当たり前。あなたが私のそばにいるのが、当たり前——ずっと、そう思てた。」

「……」

「でも、違った。あなたがいなくなったら、私——」

ユキの声が詰まった。

「私、どうやって生きていけばいいか、わからへん。」

唯は顔を上げた。その目には、涙はなかった。でも、少しだけ揺れていた。

「ユキ、それは——」

「言い訳やない。」

ユキははっきりと言った。

「私が、あなたに依存しとっただけ。あなたの優しさに甘えて、自分勝手に振る舞っとっただけ。それは、よーくわかっとる。」

「……」

「でも、わかってるだけじゃ、何も変わらへん。」

ユキはもう一歩、前に出た。唯のすぐ目の前まで。

「私、変わりたい。」

「……それ、前も言うてたやん。」

「うん。言うた。でも、変わらんかった。」

ユキは自分の手を見つめた。

「今まで、何度も『変わる』って言うて、何も変えられへんかった。それは、私が本気やなかったから。自分を変えるのが、怖かったから。」

「じゃあ、今は違うん。」

「うん。今は——違う。」

ユキは唯の目をまっすぐに見つめた。

「あなたを失うのが、怖い。それが、よーくわかった。今までの私、あなたがいなくなったら、どうなるかなんて考えたこともなかった。あなたはいつもそばにいるもんやと思てた。」

「……」

「でも、違った。あなたはもう、私のそばにおらへん。自分で、『もうやめる』って言うた。」

ユキの声が、また詰まった。

「あの時、初めて気づいた。私、あなたがいなければ、何もできへん。一人では、何も決められへん。何も変えられへん。」

「ユキ——」

「唯。私に、チャンスをくれ。」

ユキは深く頭を下げた。

「もう一回だけ、私のそばにいてくれ。」

練習室が、静まり返った。誰も動けない。誰も声を出せない。唯はしばらく黙っていた。そして、静かに言った。

「……それは、無理や。」

ユキは顔を上げた。その目には、驚きと、悲しみと、そして——諦めにも似た色が浮かんでいた。

「唯——」

「今まで、何度もチャンスをあげた。」

唯の声は、震えていなかった。

「ユキが『変わる』って言う度に、信じて待った。でも、何も変わらんかった。ユキは、変わろうとしなかった。」

「……」

「もう、疲れた。誰かのために生きるの、やめるって決めたんや。」

ユキは何も言えなかった。その場に立ちすくむ。

その時だった。カガミが口を開いた。

「唯ちゃん。一つ、提案があるねん。」

「なんや。」

「ユキに、試練を与えたい。」

「試練?」

「うん。唯ちゃんのために、ユキが本気で変わる気があるかどうか、確かめるための試練や。」

ユキが顔を上げた。「試練?」

カガミは続ける。「唯ちゃんは、もうユキの言葉を信じられへん。そやろ?」

唯は小さくうなずいた。

「やから、言葉やなくて、行動で示してもらう。それで、唯ちゃんが許せるかどうか決めたらええ。」

唯は少し迷って、聞いた。「……どんな試練なん。」

カガミは真剣な顔で言った。「ユキに、唯ちゃんのことを『もっと知る』機会を与えたい。ただ手伝うだけやなく、唯ちゃんが今までどんな気持ちでユキと向き合ってきたのか、それを身をもって体験してもらう。」

「どういうこと?」ユキが聞く。

「これから一週間、ユキは唯ちゃんの『世話』を焼け。唯ちゃんがこれまでユキにしてきたように。唯ちゃんの予定を気にかけて、唯ちゃんが疲れてたら休ませて、唯ちゃんが悩んでたら話を聞く。ただそれだけや。」

「それで——」ユキが言いかける。

「それで、唯ちゃんが『もうええ』と思たら、その時は——」

カガミはユキを見た。

「ユキは、唯ちゃんから離れる。二度と、近づかん。」

ユキは唇を噛んだ。「……わかった。」

「ユキ——」

「やる。その試練、受けます。」

ユキの声には、迷いがなかった。

「唯。これが、私の決意や。」

唯は何も言わなかった。ただ、小さくうなずいた。

それから、三日後。唯の日常が、少しだけ変わった。朝、目を覚ますと、スマホにユキからのメッセージが届いていた。『おはよう。今日の予定は?』唯は少し迷ったけど、『学校。放課後はMOCA。』と返した。すぐに返事が来た。『わかった。無理するなよ。』たったそれだけ。でも、唯の胸の奥が、じんわりと温かくなった。

放課後、MOCAに向かうと、ユキが入口で待っていた。何か飲み物を手にしている。

「唯。」

「……なに。」

「これ、やる。」

差し出されたのは、温かいミルクティーだった。唯は受け取り、「ありがとう」と言った。ユキはそれだけ言って、先に中に入っていった。

練習室では、カガミたちが準備を始めていた。ユキは黙って機材を運び、マイクの位置を確認し、楽譜を並べる。それは、今まで唯がやってきたことだった。

「ユキさん、ありがとうございます。」セイナが声をかける。

「……別に。」

ユキはそっけなく言うが、手を休めない。唯はその様子を、少し離れた場所から見ていた。自分の代わりを、ユキがしている。それが、なんだか不思議だった。

その日、練習が終わった後、ユキは唯のところに来た。

「唯、今日、どうやった。」

「……何が。」

「練習、どうやった。」

唯は少し驚いた。ユキが自分の練習のことを聞くなんて、初めてだった。

「……まあまあや。」

「そっか。」

ユキはそれだけ言って、立ち去ろうとした。唯は思わず声をかけた。

「ユキ。」

「なんや。」

「……ありがとう。」

ユキは一瞬立ち止まったけど、振り返らずにそのまま歩いていった。

それからも、ユキは毎日のように唯に連絡を入れた。『ご飯食べた?』『今日は冷えるから、上着着てけ。』『疲れたら、休め。』唯は最初、戸惑った。今まで、自分がユキに送っていたメッセージと同じだから。ユキが、自分と同じことをしている。それを思うと、なんだかおかしくて、少しだけ切なかった。

ある日、唯は熱を出した。朝からぼんやりして、体温計を測ると三十八度あった。学校を休んで、ベッドで横になっていると、スマホが震えた。ユキからだった。『今日、来れんの?』唯は『熱が出た。休む。』と返した。すぐに返事が来た。『わかった。無理すんな。』それだけ。唯はスマホを置いて、目を閉じた。

しばらくして、チャイムが鳴った。誰かが玄関に来ている。唯はふらふらと起き上がり、ドアを開けると、ユキが立っていた。少し息を切らせて、手にはコンビニの袋。

「ユキ——」

「聞いてない。お前が熱出してるって、セイナから聞いた。」

「どうして——」

「連絡くれへんから、こっちから連絡したんや。」

ユキは靴を脱いで、中に上がった。

「ベッド行け。お前、立つのもしんどいやろ。」

唯はされるがままにベッドに戻る。ユキはキッチンに向かい、冷蔵庫を開けている。

「何しとるん。」

「冷えピタ、あるか。」

「……引き出しの中。」

ユキは冷えピタを見つけて、唯の額に貼った。ひんやりとして、気持ちいい。

「それから、これ。」

コンビニの袋から出したのは、お粥とスポーツドリンク。

「食え。」

「……ありがとう。」

唯はお粥を一口食べた。温かい。胃に染みる。

「ユキ。」

「なんや。」

「なんで、ここに来たん。」

ユキは少し間を置いて、言った。

「……お前に、してきたことを、返したいから。」

「返す?」

「うん。お前が私にしてくれたことを、今度は私がお前にする。」

唯は何も言えなかった。ただ、お粥を食べ続けた。ユキはその間も、黙ってそばにいた。

その日から、ユキの“世話”はさらに濃くなった。毎朝のメッセージは欠かさず、唯が学校から帰る時間に合わせて連絡を入れる。練習の後は、必ず「お疲れ」と言う。唯が何か困ってると、すぐに気づいて手を貸す。

「ユキ、そこまでしなくて——」

「いいねん。これが、試練や。」

ユキの言葉に、唯は何も言えなかった。

7日後の夜。全ての片付けが終わり、MOCAの練習室に集まっていた。カガミがビールの缶を掲げる。

「乾杯!」

「乾杯!」

みんなで缶を合わせる。ユキも、コーラの缶でそれに参加した。

「ユキ、お疲れ。」カガミが言う。

「うん。」

「どうやった。唯ちゃんの世話。」

「……大変やった。」

「そらそうや。」

みんなで笑う。その笑顔を見て、ユキは思った。これが、唯が守りたかったものか。

「唯。」

ユキは立ち上がった。唯は顔を上げる。

「もう決めた。」

「何を。」

「あなたのことを。」

「……は?」

「今までみたいに、あなたに依存するのはやめる。あなたがいないと生きていけへん自分を変える。」

「ユキ——」

「それが、私の決めた道。ありがとう。」

ユキは深く頭を下げた。

「今まで、ごめんな。そして——ありがとう。」

唯はしばらく黙っていた。そして、小さな声で言った。

「……うん。」

それだけだった。それで、十分だった。

その夜、ユキは自分の部屋で日記を開いた。今日のことを、一言一句、書き留める。

『今日、唯に伝えた。もう追いかけないって。これからは、自分の足で立つって。唯は「うん」って言うた。それだけ。それでいい。』

(From Dandy:

Yuki finally understands. It's not about winning her back. It's about becoming someone who doesn't need to.)

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