第87話 自分自身の選択
カガミはしばらく黙っていた。ハナルも何も言えない。ユキはうつむいたまま、次の言葉を待っている。
「……わかった。」カガミが言った。「MOCA行くぞ。」
「え?」ユキが顔を上げる。
「唯ちゃんを救えるかどうかは、そこで決める。」
ユキはこくんとうなずいた。三人は教室を出て、駅へ向かった。電車の中、ユキは窓の外の景色をぼんやりと眺めていた。隣に座るカガミはスマホをいじっている。ハナルは緊張した面持ちで、時々ユキをチラッと見る。誰も喋らない。ただ、電車の音だけが規則正しく響いていた。
MOCAに着いたのは、それから二十分後だった。いつもの練習室の前でカガミが立ち止まる。ドアを開けると、中からドラムの音が聞こえてきた。キリカが練習していた。セイナとアコとヒデミはソファで寛いでいる。
「お、来たか。」キリカがスティックを置く。その目が、カガミの後ろにいるユキを捉えた。途端に、練習室の空気が変わった。
「……なんでこいつがおるんや。」キリカの声は冷たい。
セイナも立ち上がる。アコも眉をひそめた。ヒデミだけは、だるそうにソファに寄りかかったまま、ちらりとユキを見ただけだった。
「話があるねん。」カガミが言う。「唯ちゃんのことや。」
「唯?」キリカがユキを睨む。「あんた、また唯に何かしたんか。」
ユキは唇を噛んだ。「……殴った。」
「は?」
「誕生日に、唯の頬を殴った。それで唯は——」
「ふざけるな!」
キリカが立ち上がった。椅子がガタンと音を立てる。セイナもアコも、驚いたようにキリカを見る。
「何やねん。あんた、唯がどれだけあんたのこと——」
「わかっとる。」
ユキの声は、小さかった。
「わかっとる。俺は、唯に甘えてた。唯がいてくれるのが当たり前やと思てた。唯がどれだけ傷ついてるかも、気づかんかった。」
「今さら何言うとるん。今まで何してきたんや。」
「……謝っても、許してほしいとは思ってへん。」
ユキは顔を上げた。その目は、真っ赤だった。
「でも、唯を救いたい。俺の力じゃ、無理や。だから——」
「だから、あんたは人に頼るんか。」
キリカの言葉は鋭かった。ユキは何も言えなかった。キリカは続ける。
「唯はな、あんたのために、何度も何度も泣いたんや。あんたに殴られて、傷ついて、それでもあんたのことを思って——」
「わかっとる。」
「わかっとらん!」
キリカが一歩前に出た。その時だった。ユキが突然、キリカの手を掴んだ。キリカは驚いて、体が硬直する。
「何すん——」
「お願いや。」
ユキはそのまま、キリカの手を離さなかった。震える声で言った。
「唯を助けてほしい。俺には、どうしたらいいかわからへん。唯がこれからどうなるのか、何を考えてるのか、想像もつかへん。でも——お前たちには、わかるかもしれへん。」
「離せ。」
「唯は、もう俺に頼らへん。それは、俺が悪かったからや。でも、お前たちには頼るかもしれへん。だから——」
ユキは深く頭を下げた。
「お願いします。」
キリカはしばらく黙っていた。やがて、小さな声で言った。
「……離せ。」
「——っ。」
「離せ言うとるやろ。」
ユキはおずおずと手を離した。キリカはため息をついて、元の位置に戻った。もう怒っている様子はない。でも、特別に親切にする気もないらしい。
「知らん。私は、唯とあんたの関係に、これ以上首を突き入れたない。」
「キリカ——」
「あんたが自分で何とかせえ。それが、一番の償いや。」
ユキは何も言えなかった。カガミもハナルも、何も言えない。その時、ソファからだるそうな声が上がった。
「めんどくさいなあ。」
ヒデミだった。彼女はゆっくりと立ち上がり、ユキのところまで歩いてきた。
「お前、唯のことが心配なんか。」
「……うん。」
「唯が何かすると思うとるんか。」
「わからへん。でも、もし——」
ユキの声が詰まった。
「もし唯が何かしたら、俺——」
「唯は、あんたが思うほど弱ない。」
ヒデミはだるそうに言った。ユキは顔を上げた。
「え?」
「唯はな、あんたに殴られても、泣かなかった。あんたに嫌なこと言われても、我慢した。それは、唯が強いからや。自分を犠牲にしてまで、あんたに尽くせるのは、強いからや。」
「ヒデミ……」
「でもな、強い人間がポッキリ折れる時は、呆気ないもんや。」
ユキの顔色が変わった。ヒデミは続ける。
「あんたは、唯の『強さ』に甘えてただけや。唯がいつでも自分を支えてくれると思てた。でも、唯が『もうやめる』って言うた時、初めて気づいたんやろ。自分がいかに唯に依存してたか。」
「……うん。」
「で、どうする。」
「わからへん。でも——」
ユキは拳を握りしめた。
「唯に、ちゃんと伝えたい。俺の気持ちを。今まで一度も、ちゃんと伝えたことなかったから。」
「それが、唯のためになると思うか。」
「わからへん。でも、やらなきゃ、何も変わらへん。」
その時、ずっと黙っていたアコが口を開いた。
「ヒデミ。一つ、提案があるねん。」
「なんや。」
「唯さんを、一旦FAに誘わへん?」
「は?」キリカが眉をひそめる。
「唯さんは、今、一人で抱え込んでる。ユキのことも、自分のことも。誰かに話を聞いてもらうだけでも、楽になるかもしれへん。」
「それは——」
「それに、ユキも一緒に来たらええ。」
ユキは驚いてアコを見た。
「私も?」
「うん。唯さんは、あなたのことが一番気になってる。あなたがどう思ってるか、どう考えてるか。それを直接伝えられれば、唯さんも少しは楽になるかもしれへん。」
「アコ、それは——」
「危険や。」キリカが言い切った。「唯をさらに傷つけるかもしれへん。」
「でも、やらないよりはましや。」
ヒデミの言葉に、キリカも黙った。カガミも何かを考えている。ハナルは小さな声で言った。
「……私も、それがいいと思います。唯さんは、一人で抱え込む癖があるから。」
「セイナは?」カガミが聞く。
セイナは少し迷ったけど、うなずいた。「唯さんは、優しすぎるんです。自分の気持ちを押し殺してまで、誰かを優先する。でも、それじゃいつか自分が壊れてしまう。私は、唯さんにもっと自分を大切にしてほしい。」
「よし、決まりや。」カガミが言った。「唯ちゃんを誘おう。」
「いつ?」アコが聞く。
「明日。唯ちゃんが来れるって言うなら。」
「わかった。私から連絡する。」セイナが手を挙げた。
「頼むわ。」カガミはユキを見た。「お前は、それでええか。」
「……うん。」
ユキはうなずいた。でも、その目はまだ不安そうだった。ヒデミはそんなユキを見て、だるそうに言った。
「そんなに心配なら、自分から連絡してみい。」
「え?」
「唯に。『また会いたい』って。」
「で、でも——」
「それも唯のためや。」
ユキはしばらく迷ったけど、スマホを取り出した。唯とのトーク画面。最後のメッセージは、自分から送った『ごめん』。唯の返事は『うん』だけ。ユキは深呼吸して、文字を打ち始めた。
『唯。明日、MOCAに来てほしい。話がある。』
指が震えた。間違えて消しそうになる。でも、もう一度打ち直した。そして、送信ボタンを押す。
既読がつくまで、数分かかった。唯の返事は、短かった。
『わかった。』
ユキはそれを見つめて、少しだけ息を吐いた。
「……来るって。」
「よかったな。」カガミが言う。
ユキはもう一度、頭を下げた。
「……ありがとう。みんな。」
「礼なんていらん。」キリカがそっけなく言う。「唯が来て、ちゃんと話せるかどうか。それ次第や。」
「うん。」
その日、ユキはMOCAを後にする時、振り返って練習室を見た。壁のポスター。隅の古いベース。あの日、自分が置き去りにした場所。次に来る時は、唯と一緒に——そう思うと、胸の奥が少しだけ熱くなった。
(From Dandy:
Yuki is trying. It's not much, but it's a start. Will Yui show up? Will they be able to talk? Stay tuned.)




