第86話 ApologizE
唯は自分の部屋に戻り、鍵をかけた。部屋の中は静かだった。電気もつけず、カバンを床に置き、そのままベッドに倒れ込む。天井の染みを数えようとしたが、途中でやめた。どうでもよかった。何もかも、どうでもよかった。
体が重い。鉛を飲み込んだみたいに、手足が動かない。ユキと話した。ユキは謝った。ユキは「変わりたい」と言った。それで、終わったはずだった。でも、唯の心の中は、まだ晴れない。むしろ、さっきまでよりずっと重くなっていた。
「……はあ。」
ため息が一つ、部屋に落ちる。唯は体を起こして、机の引き出しを開けた。中から出てきたのは、一冊の日記帳。表紙はもう少しで取れそうだ。長年使っているから、あちこち傷んでいる。でも、これが彼女の唯一の吐き出し口だった。
ペンを握る。インクが出るかどうか、試し書きをする。問題ない。唯は日記帳を開き、今日の日付を書き込んだ。
『今日、ユキと話した。』
それだけ書いて、手が止まった。何を書けばいいのか、わからなかった。ユキに叩かれたこと?それとも、自分が「もう追いかけない」と言ったこと?どちらも書きたい。でも、書けない。言葉にならない。心の中がぐちゃぐちゃで、どこから手をつければいいのか、見当もつかない。
唯はもう一度、ペンを進めた。
『ユキは謝った。初めてだった。でも、私はもう、信じられない。何度も何度も傷ついてきたから。ユキの言葉を信じて、裏切られて、また信じて、また傷ついて——その繰り返し。』
震える手で、必死に文字を紡ぐ。
『ユキは「変わる」と言った。でも、変わってない。最近、少し優しくなったけど、それだけ。何か行動したわけじゃない。ただ、私に対する態度がちょっと柔らかくなっただけ。それが、どれだけ続くかもわからない。三日坊主かもしれない。』
インクが掠れた。唯はペンを振って、もう一度書き始める。
『私は、もう期待しないことにした。期待すれば、その分、傷つくから。ユキが変わるかどうかは、ユキの問題。私は、もうユキの後ろを走るのはやめる。』
ここまで書いて、唯は顔を上げた。カーテンの隙間から、外の灯りが漏れている。薄暗い部屋の中、自分の影だけがぼんやりと浮かび上がっていた。
『疲れた。本当に、疲れた。誰かのために生きるの、もうやめたい。でも、どうやって自分のために生きればいいのか、わからない。』
最後の一行を書き終えた時、ペン先が紙を破った。唯は小さなため息をつき、日記帳を閉じた。ベッドの横に置いて、そのまま横になる。目を閉じる。でも、眠れない。頭の中は、さっきの会話でいっぱいだった。ユキの声。ユキの目。ユキが言った「ごめん」。あの言葉を、ユキは本気で言ったのだろうか。それとも、ただその場しのぎで?
「……わからない。」
ポツリと呟いた声が、壁に吸い込まれる。スマホを手に取る。画面には、ユキからのメッセージはない。カガミとセイナからの連絡の後は、誰ともやり取りしていない。唯はスマホを握りしめたまま、天井を見つめる。
夜は、まだまだ長い。
その頃、大阪。ユキは自分の部屋のベッドに座り込んでいた。膝を抱えて、何も考えられない。頭の中は、唯の言葉でいっぱいだった。「もうやめる」「もう疲れた」「もう戻らへん」——あれは、唯の本心だ。今までの唯なら、絶対に言わなかった言葉。ユキは自分の手を見つめた。この手で、唯を叩いた。何度も。何度も。唯は泣かなかった。怒らなかった。ただ、黙って受け止めていた。それが、余計にユキを苛立たせていた。
「……何やってんねん、私。」
低い声が、部屋に響く。ユキは髪を掻きむしり、ベッドにうつ伏せになった。枕に顔を埋めて、叫びたいのをこらえる。唯を傷つけた。唯に辛い思いをさせた。それなのに、唯は最後に「また誘って」と言った。そんな資格、自分にあるはずがない。
「唯……」
スマホを手に取る。唯とのトーク画面。最後のメッセージは、自分から送った『ごめん』。唯の返事は『うん』だけ。それきり、何もない。ユキは画面を眺めながら、何か打ちかけて、消す。また打って、消す。何を送ればいいのか、わからなかった。「ごめん」しか言えない。でも、「ごめん」だけじゃ、何も変わらない。それは、唯が教えてくれた。
ユキはスマホをベッドに投げ出し、立ち上がった。窓の外を見る。夜の街が広がっている。あの日、唯がしゃがみ込んでいた商店街は、今頃もう誰もいないだろう。あの時、唯は何を思っていたんだろう。一人で、暗い中で、何を考えていたんだろう。
「……行くしかないか。」
ユキは決意した。行くしかない。FAの教室へ。カガミのもとへ。あの時、自分が捨てた場所へ。
翌日、午後。松園女子高等学校の校門の前で、ユキは立ち止まっていた。何度も来た場所なのに、今日はやけに遠く感じる。中に入るには、勇気が必要だった。
「……しゃあない。」
自分に言い聞かせて、校門をくぐる。正面の守衛所には、いつものおじさんが座っていた。ユキを見て、「あら、お久しぶり」と声をかける。ユキは小さく会釈して、校舎へ向かった。
三階。FAの教室。ドアの前まで来て、ユキの足が止まった。ノブに手をかけようとして、やめる。また手をかけようとして、やめる。
「何してるんや、私。」
深呼吸を一つして、ドアをノックした。返事はない。もう一度。今度は少し強く。がらりとドアが開いた。中から顔を出したのは、カガミだった。オレンジ色の髪が、いつも通り目立つ。
「……ユキ。」
カガミの声は、警戒心を帯びていた。後ろからハナルも顔を出す。どちらも、「何しに来たん」という表情だった。
「話、ある。」
「なんや。」
「唯のことや。」
その言葉に、カガミの眉がピクリと動いた。ハナルも、唇を噛みしめる。ユキは一度、深く息を吸った。
「……入れてもらえんか。」
カガミは黙って、ユキを通した。教室の中は、前と変わらない。壁にはポスター。隅にはあの古いベース。あの日、自分が置いてきた場所だ。ユキはそのベースを一瞥して、目をそらした。
「で、唯がどうしたん。」カガミが問い詰める。
ユキはうつむいたまま、言葉を探した。何て言えばいいのか、わからない。でも、言わなければならない。自分から来たのだから。
「……私が、唯を殴った。」
「知っとる。」
「あの後、唯と話した。謝った。でも、それだけや。」
「それだけ?」
「うん。」
カガミの目が、さらに厳しくなる。ハナルも、何か言いたそうに口を開けて、閉じた。
「それで、なんの用や。」
「助けてほしい。」
ユキの声は、掠れていた。
「唯を、助けてほしい。私の代わりに——」
「ちょっと待て。」
カガミが遮った。
「『代わりに』って、何や。お前は唯のこと、自分で考えられへんのか。」
「考えた。でも——」
「でも?」
「私には、無理や。」
ユキの声が、小さくなる。
「今まで、ずっと唯に甘えてきた。唯がいてくれるのが当たり前やと思てた。唯が離れていったら、自分がどうなるかも考えたことなかった。でも、唯が『もうやめる』って言うた時、初めて気づいた。私は、何もできへん。」
「ユキ——」
「私は、自分のことしか考えてへんかった。唯が傷つくのを見て、それでも『どうせすぐ戻ってくる』って高を括っとった。でも、違った。唯は本気やった。あの日、唯が『もう戻らへん』って言うた時、私——」
ユキの言葉が詰まった。カガミは何も言わずに、彼女の言葉を待った。
「私、初めて怖い思た。唯を失うことが、怖なった。」
「……で、どうしてオレたちに頼るんや。」
「だって——」
ユキは顔を上げた。その目は、真っ赤だった。
「唯を救えるのは、あなたたちしか思いつかへんから。」
(From Dandy:
It's not easy for Yui to come this far. Will Yuki really change……?)




