表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
88/97

第85話 許しと解決策

それから三日後。午後二時。松園女子高等学校の正門前。

唯は少しだけ早く着きすぎた。待ち合わせまでまだ十五分ある。彼女は校門の脇に立って、スマホをいじるふりをしながら、自分の心臓の音を聞いていた。ドクンドクンと、うるさいくらいに響いている。今日、ユキに会う。それだけで、胃がキリキリと痛んだ。でも、もう決めた。逃げない。カガミに言われた。「お前の気持ちは、お前のものや」——その言葉が、ずっと頭から離れなかった。

約束の場所は、校門のすぐ隣にある小さなミルクティーショップ。店内は白と木目調で、女子高生でいつも賑わっている。唯は窓際の席を選んだ。外から中の様子が見えるし、ユキが来るのが一目でわかるから。

「いらっしゃいませ。」

店員の明るい声に、唯は小さくうなずいた。まだ何も頼めない。喉が渇いているのに、水さえも飲みたくない。ユキが来るまでは。

十分後、ガラス戸が開いた。ユキだ。黒いタンクトップに迷彩柄のパンツ。髪はいつものように乱雑にまとめている。無表情で店内を見渡し、唯を見つけると、ため息をつきながら歩いてきた。

「で、用って何。」

ユキは向かいの席にどかりと座った。店員が近づいて、注文を聞く。唯は「ミルクティー、ホットで」とだけ言い、ユキは「コーラ」と一言。店員が去った後、二人の間に重い沈黙が落ちた。唯はうつむいたまま、なかなか言葉が出てこない。ユキはイライラと指で机をトントン叩いている。

「何や。話があるって言うから来たのに。無言なら帰るで。」

「……待って。」

唯が顔を上げた。その目は、いつもの唯じゃなかった。泣きそうでもない。怯えてもいない。ただ、まっすぐに、ユキを見つめている。ユキはその視線に一瞬たじろいだけど、すぐにまた不機嫌そうに口をへの字に曲げた。

「誕生日の時は、悪かったと思とる。」

「……は?」

「叩いたこと。やりすぎた。」

「それだけ?」

「それだけや。」

ユキはそっけなく言った。唯は唇を噛んだ。これまでなら、それで許していた。『ユキが謝ってくれた』——それだけで、全てを水に流していた。でも、今日は違う。

「ユキ。私、話したいことがある。」

「なんや。」

「……この関係、もうやめにしない?」

ユキの指が、机を叩くのを止めた。「は?」

「私は、もう疲れた。」

唯の声は、静かだった。でも、はっきりと聞こえた。ユキは一瞬、何を言われたのか理解できなかった。ただ、唯の顔を見つめ返す。

「なに言うとるん。急に。」

「急やない。ずっと前から考えてた。」

「……どういうことや。」

ユキの口調が、少しだけ鋭くなる。唯は深呼吸して、続けた。

「私は、小さい頃からユキのことが好きやった。ずっと一緒にいたいと思てた。だから、ユキがやりたいって言うことは、何でも一緒にやってきた。」

「それが?」

「でも、ユキは、私のこと、どう思うとるんやろ。友達?それとも、ただの都合のいい存在?」

「何が言いたいねん。」

ユキの声が、一段と低くなる。唯はそれでも怯まない。

「私は、ユキにとって、何にもなれへんのかもしれへん。それが、今日わかった。」

「……お前、何か言われたんか。誰かに。」

「違う。自分で気づいたんや。」

唯は自分の手を見つめた。細い指。爪は短く切ってある。この手で、ユキのためにどれだけのことをしてきただろう。

「ユキは、私が何をしても、当たり前やと思とる。プレゼントを用意しても、手紙を書いても、『いらん』の一言。私が何か言うと、『うるさい』『帰れ』。時々、叩くこともある。」

「あれは——」

「殴られること自体は、もう慣れとる。でも、な。」

唯の声が、少しだけ震えた。

「私は、ユキに殴られたくて、やってるわけやない。」

ユキは何も言わなかった。唯は続ける。

「誕生日の時、一ヶ月前から準備したプレゼント。ユキは見てもくれへんかった。それどころか、私の頬を叩いた。あの時、私——自分が情けなくなった。なんで、こんなにまでして、この人に尽くしてるんやろうって。」

「……それは、お前が勝手に——」

「うん。勝手にしたんや。勝手に期待して、勝手に傷ついた。それは、わかっとる。」

唯は顔を上げた。目には、もう涙はなかった。

「でも、もうやめる。」

「……やめるって、何を。」

「ユキのことを、追いかけるの。私、もう疲れた。この何年も、ずっとユキの後ろを走り続けてきた。でも、ユキは一度も振り返ってくれへんかった。」

「——それは、お前が——」

「うん。私が勝手に走ってただけ。それでええねん。もう、ええねん。」

唯は立ち上がった。ユキも反射的に立ち上がる。

「ちょっと待て。話、途中やろ。」

「もう、言うことない。」

「——あるやろ。なんで急にそんなこと言うん。昨日まで、普通やったやん。」

「昨日まで、我慢してただけ。」

唯の言葉に、ユキの顔色が変わった。いつもの不機嫌な表情ではなく、焦りにも似た色が浮かんでいる。

「お前、本気で言うとるんか。」

「本気や。」

「……ふん。どうせ、すぐ戻ってくるくせに。」

ユキはそう言って、そっぽを向いた。唯はその横顔を見つめて、少しだけ笑った。

「そうかもしれへん。でも、今は——」

「今は?」

「今は、もう戻らへん。」

唯はバッグを手に取り、席を立とうとした。その時、ユキが口を開いた。

「……待って。」

その声は、今までに聞いたことのない、掠れたような響きだった。唯は立ち止まった。けれど、振り返らない。

「なんや。」

「……ごめん。」

ユキの声は、小さかった。唯は耳を疑った。ユキが謝るなんて、初めてだった。

「……は?」

「誕生日のこと、謝る。叩いたのは、悪かった。」

「もう、ええって。」

「ちゃうねん。それだけやないねん。」

ユキは机の端をぎゅっと握りしめた。指先が白くなっている。

「私……お前に甘えとった。わかっとる。ずっと、わかっとった。でも、どうしても——」

「どうしても、なん。」

「どうしても、素直になれへんかってん。」

ユキの声が、震えている。唯は初めて、ユキのそんな姿を見た。

「唯。ごめん。」

唯はゆっくりと振り返った。ユキの目は、真っ赤だった。泣いているのか、ただ充血しているのか。それさえもわからなかった。

「……ユキ。」

「お前がいなくなったら、私——」

ユキの言葉が、そこで止まった。唯は何も言えなかった。今までずっと、ユキの言葉を待っていた。でも、それが今、やっと聞けた気がした。

「……わかった。」

唯はそう言って、再び席に座った。ユキは驚いたように、彼女の顔を見る。

「唯——」

「話、続けよ。」

唯の声は、さっきより少しだけ柔らかかった。ユキはこくんとうなずいて、再び席に着く。店員がミルクティーとコーラを運んできた。湯気が立ち上り、ほんのりと甘い香りが広がる。唯はカップに手を伸ばさず、じっとユキを見つめていた。

「ユキは、自分のことを、どう思う。」

「……は?」

「自分の性格、どう思う。周りからどう見られてると思う。」

ユキはムッとしたが、すぐに視線をそらした。

「……わからへん。」

「私は、教えてもらった。カガミさんから。」

「カガミ?」

「うん。『お前は、ユキのことを本気で思ってた。それだけは、誰にも否定させへん』って。」

ユキは何も言わなかった。唯は続ける。

「その言葉を聞いて、私は救われた気がした。今まで、私のしてきたことは、無駄やなかった。ただ、相手に伝わってなかっただけ。」

「唯——」

「ユキは、自分の気持ちを伝えるのが、上手くない。それは、わかっとる。でも、それで人を傷つけてもええわけやない。」

ユキはうつむいた。その顔には、悔しさと、情けなさが混ざっていた。

「……わかっとる。」

「じゃあ、これから、どうする。」

「どうするって……。」

ユキは顔を上げた。その目は、まだ赤い。

「お前に、どうしてほしいんや。」

「私は、もうユキに何も求めへん。」

「——っ。」

「でも——」

唯は少し間を置いて、言った。

「ユキが変わりたいと思うなら、手伝う。」

「……は?」

「無理に変わろうとせんでええ。少しずつでいい。自分の気持ちを、言葉にする練習をしよう。」

ユキはポカンと口を開けた。唯はその様子を見て、小さく笑った。

「それが、私の答えや。」

「……お前、ほんまに変わったな。」

「変わったんやない。やっと、気づいただけ。」

唯はミルクティーを一口飲んだ。温かい。ほんのりと甘くて、心に染みる。

「ユキも、変わろう。自分のために。」

「……わかった。」

ユキの声は、まだぎこちなかった。でも、拒絶の色はなかった。唯はそれを聞いて、ほっとした。

「じゃあ、今日はもう帰る。」

「え?」

「遅くまで外におったら、親が心配する。」

「……そうやな。」

ユキも立ち上がった。二人でレジに向かい、それぞれ自分の分を払う。今までは、いつも唯がおごっていた。今日は、それがなんだか新鮮だった。

店を出ると、外はもう夕暮れに変わっていた。オレンジ色の光が、二人の影を長く伸ばす。

「唯。」

「ん?」

「……今日、泊まりに来る?」

ユキの声は、いつになく小さかった。唯は少し驚いたけど、すぐに首を振った。

「今日は、やめとく。」

「そうか。」

「でも——」

唯はユキの手を握った。冷たい。少しだけ震えている。

「また、誘って。」

「……うん。」

ユキはこくんとうなずいた。唯はその手を離して、背を向けた。歩き出す。振り返らない。それが、彼女の一歩だった。

ユキはその後ろ姿を、立ち尽くして見送っていた。夕日が、唯の髪をキラキラと輝かせている。それが、とても綺麗だった。

「……唯。」

小さな声が、夕暮れに溶けた。

その夜、唯は自分の部屋で、ユキにもらったベースの弦を眺めていた。まだ使っていない。箱からも出していない。もったいなくて、まだ開けられない。

スマホが震える。グループチャットの通知。カガミからだった。『唯ちゃん、大丈夫か?』唯は『うん』とだけ返した。それで十分だった。

またメッセージが来る。今度はセイナから。『唯さん、無理してないですか?』唯は『してないよ』と返す。それが、偽りではないと願いながら。

その時、個別のメッセージが届いた。ユキからだった。『ごめん』——たったそれだけ。唯はそれを見つめて、少しだけ笑った。

『うん』——そう返した。

(From Dandy:

Yui finally had the courage to speak her mind. Yuki is still awkward, but for the first time, she said "sorry." The first step is always the hardest.)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ