第85話 許しと解決策
それから三日後。午後二時。松園女子高等学校の正門前。
唯は少しだけ早く着きすぎた。待ち合わせまでまだ十五分ある。彼女は校門の脇に立って、スマホをいじるふりをしながら、自分の心臓の音を聞いていた。ドクンドクンと、うるさいくらいに響いている。今日、ユキに会う。それだけで、胃がキリキリと痛んだ。でも、もう決めた。逃げない。カガミに言われた。「お前の気持ちは、お前のものや」——その言葉が、ずっと頭から離れなかった。
約束の場所は、校門のすぐ隣にある小さなミルクティーショップ。店内は白と木目調で、女子高生でいつも賑わっている。唯は窓際の席を選んだ。外から中の様子が見えるし、ユキが来るのが一目でわかるから。
「いらっしゃいませ。」
店員の明るい声に、唯は小さくうなずいた。まだ何も頼めない。喉が渇いているのに、水さえも飲みたくない。ユキが来るまでは。
十分後、ガラス戸が開いた。ユキだ。黒いタンクトップに迷彩柄のパンツ。髪はいつものように乱雑にまとめている。無表情で店内を見渡し、唯を見つけると、ため息をつきながら歩いてきた。
「で、用って何。」
ユキは向かいの席にどかりと座った。店員が近づいて、注文を聞く。唯は「ミルクティー、ホットで」とだけ言い、ユキは「コーラ」と一言。店員が去った後、二人の間に重い沈黙が落ちた。唯はうつむいたまま、なかなか言葉が出てこない。ユキはイライラと指で机をトントン叩いている。
「何や。話があるって言うから来たのに。無言なら帰るで。」
「……待って。」
唯が顔を上げた。その目は、いつもの唯じゃなかった。泣きそうでもない。怯えてもいない。ただ、まっすぐに、ユキを見つめている。ユキはその視線に一瞬たじろいだけど、すぐにまた不機嫌そうに口をへの字に曲げた。
「誕生日の時は、悪かったと思とる。」
「……は?」
「叩いたこと。やりすぎた。」
「それだけ?」
「それだけや。」
ユキはそっけなく言った。唯は唇を噛んだ。これまでなら、それで許していた。『ユキが謝ってくれた』——それだけで、全てを水に流していた。でも、今日は違う。
「ユキ。私、話したいことがある。」
「なんや。」
「……この関係、もうやめにしない?」
ユキの指が、机を叩くのを止めた。「は?」
「私は、もう疲れた。」
唯の声は、静かだった。でも、はっきりと聞こえた。ユキは一瞬、何を言われたのか理解できなかった。ただ、唯の顔を見つめ返す。
「なに言うとるん。急に。」
「急やない。ずっと前から考えてた。」
「……どういうことや。」
ユキの口調が、少しだけ鋭くなる。唯は深呼吸して、続けた。
「私は、小さい頃からユキのことが好きやった。ずっと一緒にいたいと思てた。だから、ユキがやりたいって言うことは、何でも一緒にやってきた。」
「それが?」
「でも、ユキは、私のこと、どう思うとるんやろ。友達?それとも、ただの都合のいい存在?」
「何が言いたいねん。」
ユキの声が、一段と低くなる。唯はそれでも怯まない。
「私は、ユキにとって、何にもなれへんのかもしれへん。それが、今日わかった。」
「……お前、何か言われたんか。誰かに。」
「違う。自分で気づいたんや。」
唯は自分の手を見つめた。細い指。爪は短く切ってある。この手で、ユキのためにどれだけのことをしてきただろう。
「ユキは、私が何をしても、当たり前やと思とる。プレゼントを用意しても、手紙を書いても、『いらん』の一言。私が何か言うと、『うるさい』『帰れ』。時々、叩くこともある。」
「あれは——」
「殴られること自体は、もう慣れとる。でも、な。」
唯の声が、少しだけ震えた。
「私は、ユキに殴られたくて、やってるわけやない。」
ユキは何も言わなかった。唯は続ける。
「誕生日の時、一ヶ月前から準備したプレゼント。ユキは見てもくれへんかった。それどころか、私の頬を叩いた。あの時、私——自分が情けなくなった。なんで、こんなにまでして、この人に尽くしてるんやろうって。」
「……それは、お前が勝手に——」
「うん。勝手にしたんや。勝手に期待して、勝手に傷ついた。それは、わかっとる。」
唯は顔を上げた。目には、もう涙はなかった。
「でも、もうやめる。」
「……やめるって、何を。」
「ユキのことを、追いかけるの。私、もう疲れた。この何年も、ずっとユキの後ろを走り続けてきた。でも、ユキは一度も振り返ってくれへんかった。」
「——それは、お前が——」
「うん。私が勝手に走ってただけ。それでええねん。もう、ええねん。」
唯は立ち上がった。ユキも反射的に立ち上がる。
「ちょっと待て。話、途中やろ。」
「もう、言うことない。」
「——あるやろ。なんで急にそんなこと言うん。昨日まで、普通やったやん。」
「昨日まで、我慢してただけ。」
唯の言葉に、ユキの顔色が変わった。いつもの不機嫌な表情ではなく、焦りにも似た色が浮かんでいる。
「お前、本気で言うとるんか。」
「本気や。」
「……ふん。どうせ、すぐ戻ってくるくせに。」
ユキはそう言って、そっぽを向いた。唯はその横顔を見つめて、少しだけ笑った。
「そうかもしれへん。でも、今は——」
「今は?」
「今は、もう戻らへん。」
唯はバッグを手に取り、席を立とうとした。その時、ユキが口を開いた。
「……待って。」
その声は、今までに聞いたことのない、掠れたような響きだった。唯は立ち止まった。けれど、振り返らない。
「なんや。」
「……ごめん。」
ユキの声は、小さかった。唯は耳を疑った。ユキが謝るなんて、初めてだった。
「……は?」
「誕生日のこと、謝る。叩いたのは、悪かった。」
「もう、ええって。」
「ちゃうねん。それだけやないねん。」
ユキは机の端をぎゅっと握りしめた。指先が白くなっている。
「私……お前に甘えとった。わかっとる。ずっと、わかっとった。でも、どうしても——」
「どうしても、なん。」
「どうしても、素直になれへんかってん。」
ユキの声が、震えている。唯は初めて、ユキのそんな姿を見た。
「唯。ごめん。」
唯はゆっくりと振り返った。ユキの目は、真っ赤だった。泣いているのか、ただ充血しているのか。それさえもわからなかった。
「……ユキ。」
「お前がいなくなったら、私——」
ユキの言葉が、そこで止まった。唯は何も言えなかった。今までずっと、ユキの言葉を待っていた。でも、それが今、やっと聞けた気がした。
「……わかった。」
唯はそう言って、再び席に座った。ユキは驚いたように、彼女の顔を見る。
「唯——」
「話、続けよ。」
唯の声は、さっきより少しだけ柔らかかった。ユキはこくんとうなずいて、再び席に着く。店員がミルクティーとコーラを運んできた。湯気が立ち上り、ほんのりと甘い香りが広がる。唯はカップに手を伸ばさず、じっとユキを見つめていた。
「ユキは、自分のことを、どう思う。」
「……は?」
「自分の性格、どう思う。周りからどう見られてると思う。」
ユキはムッとしたが、すぐに視線をそらした。
「……わからへん。」
「私は、教えてもらった。カガミさんから。」
「カガミ?」
「うん。『お前は、ユキのことを本気で思ってた。それだけは、誰にも否定させへん』って。」
ユキは何も言わなかった。唯は続ける。
「その言葉を聞いて、私は救われた気がした。今まで、私のしてきたことは、無駄やなかった。ただ、相手に伝わってなかっただけ。」
「唯——」
「ユキは、自分の気持ちを伝えるのが、上手くない。それは、わかっとる。でも、それで人を傷つけてもええわけやない。」
ユキはうつむいた。その顔には、悔しさと、情けなさが混ざっていた。
「……わかっとる。」
「じゃあ、これから、どうする。」
「どうするって……。」
ユキは顔を上げた。その目は、まだ赤い。
「お前に、どうしてほしいんや。」
「私は、もうユキに何も求めへん。」
「——っ。」
「でも——」
唯は少し間を置いて、言った。
「ユキが変わりたいと思うなら、手伝う。」
「……は?」
「無理に変わろうとせんでええ。少しずつでいい。自分の気持ちを、言葉にする練習をしよう。」
ユキはポカンと口を開けた。唯はその様子を見て、小さく笑った。
「それが、私の答えや。」
「……お前、ほんまに変わったな。」
「変わったんやない。やっと、気づいただけ。」
唯はミルクティーを一口飲んだ。温かい。ほんのりと甘くて、心に染みる。
「ユキも、変わろう。自分のために。」
「……わかった。」
ユキの声は、まだぎこちなかった。でも、拒絶の色はなかった。唯はそれを聞いて、ほっとした。
「じゃあ、今日はもう帰る。」
「え?」
「遅くまで外におったら、親が心配する。」
「……そうやな。」
ユキも立ち上がった。二人でレジに向かい、それぞれ自分の分を払う。今までは、いつも唯がおごっていた。今日は、それがなんだか新鮮だった。
店を出ると、外はもう夕暮れに変わっていた。オレンジ色の光が、二人の影を長く伸ばす。
「唯。」
「ん?」
「……今日、泊まりに来る?」
ユキの声は、いつになく小さかった。唯は少し驚いたけど、すぐに首を振った。
「今日は、やめとく。」
「そうか。」
「でも——」
唯はユキの手を握った。冷たい。少しだけ震えている。
「また、誘って。」
「……うん。」
ユキはこくんとうなずいた。唯はその手を離して、背を向けた。歩き出す。振り返らない。それが、彼女の一歩だった。
ユキはその後ろ姿を、立ち尽くして見送っていた。夕日が、唯の髪をキラキラと輝かせている。それが、とても綺麗だった。
「……唯。」
小さな声が、夕暮れに溶けた。
その夜、唯は自分の部屋で、ユキにもらったベースの弦を眺めていた。まだ使っていない。箱からも出していない。もったいなくて、まだ開けられない。
スマホが震える。グループチャットの通知。カガミからだった。『唯ちゃん、大丈夫か?』唯は『うん』とだけ返した。それで十分だった。
またメッセージが来る。今度はセイナから。『唯さん、無理してないですか?』唯は『してないよ』と返す。それが、偽りではないと願いながら。
その時、個別のメッセージが届いた。ユキからだった。『ごめん』——たったそれだけ。唯はそれを見つめて、少しだけ笑った。
『うん』——そう返した。
(From Dandy:
Yui finally had the courage to speak her mind. Yuki is still awkward, but for the first time, she said "sorry." The first step is always the hardest.)




