第84話 やめなさい、無駄なお世辞
カガミのスマホが震えたのは、午前零時を少し回った頃だった。グループチャットの通知。送り主は唯。『助けて』——たったそれだけの文字。
カガミはすぐに電話をかけた。コール音が三回。四回。五回。誰も出ない。
「どうしたんや。」隣でキリカが目を覚ます。
「唯ちゃんから『助けて』ってLINEが来た。出えへん。」
キリカの表情が一瞬で引き締まった。グループチャットに『今どこや』と打つ。既読はつかない。
カガミは立ち上がって、ジャケットを引っ掴んだ。「オレ、行ってくる。」
「一人で行かせへん。」キリカもベッドを出る。電話をかけるセイナに。カガミは二人の会話を聞いて、すぐにセイナを連れ出そうと準備している。
「セイナちゃん、すぐ来れるか。」カガミが電話する。
『はい。どこですか。』
「まだわからへん。唯ちゃんが出えへん。キリカが近くのライブハウスの場所を調べてる。」
『わかりました。私もすぐ向かいます。』
カガミはキリカを見た。「見つかった?」
「多分、ここ。」
キリカが示したのは、繁華街から少し外れた、古い商店街の一角。閉まっている店が多い場所だ。ハナルにも連絡を入れたが、深夜ということもあって、すぐに動けるのはカガミ、キリカ、セイナだけ。今日は祝うために、セイナの親がいくつかの要求を緩めた。
「オレ、先に行くわ。」カガミはガレージの裏に停めてある軽自動車のキーを握りしめる。キリカも無言で助手席に乗り込む。
エンジンをかけ、夜の街へ飛び出した。
唯は、商店街のシャッターが下りた店の前で、小さく丸まっていた。スマホの画面は割れていない。でも、もう誰かに連絡する勇気もなかった。さっきまで何度も何度もカガミの名前が画面に表示されていた。でも、自分がかけたのはたった一言の『助けて』だけ。あとは何も書けなかった。何て言えばいいのかわからなかった。
今夜は、ユキの誕生日だった。唯は一ヶ月前から準備していた。ユキが前から欲しがっていたベースの弦。それに、手書きの手紙。ユキは毎年、「誕生日なんてどうでもいい」と言う。でも、唯は毎年、プレゼントを用意した。今年も、そうするつもりだった。
「ユキ、お誕生日おめでとう。」
ライブハウスの控え室。唯は小さな包みを差し出した。ユキはちらりとそれを見て、すぐに目をそらした。
「いらん。」
「ユキ——」
「いらないって言うとるやろ。」
ユキの声は冷たかった。唯はそれでも、包みをユキの前に置いた。
「じゃあ、ここに置いとくね。後で——」
「聞いとらんのか。」
ユキが立ち上がった。その目は、唯を真正面から見つめている。唯は息を呑んだ。
「ユキ……どうしたん。なんか、あったら言って。」
「あったら言えいうたって、お前が解決できるんか。」
「わからん。でも、話してくれたら——」
「話したら、何とかしてくれると思とるんか。」
ユキの手が、唯の頬を打った。パンという乾いた音が、控え室に響く。
唯はその場で固まった。頬が熱い。目の前がぼんやりする。痛みよりも、ショックの方が大きかった。
「ユキ……」
「もうええわ。帰れ。」
唯は何も言えなかった。ただ、ユキの横顔を見つめていた。ユキはもう、唯の方を見ていない。唯は小さく頭を下げて、控え室を出た。
外の空気は冷たかった。頬の痛みが、じわじわと広がる。唯はスマホを取り出して、時間を確認する。もうすぐ零時。今日という日が終わる。ユキの誕生日が終わる。一ヶ月かけて準備したプレゼントは、ユキの手にも渡らず、ただ控え室の隅に置き去りにされた。
唯は商店街をぶらぶらと歩いた。行く当てもなく、ただ足を動かした。気づけば、もう閉まっている店の前で立ち止まっていた。シャッターの冷たさが、背中に伝わる。そのまま、しゃがみ込んだ。
『助けて』
打った文字は、たったそれだけ。送り先は、カガミ。あとは、何も打てなかった。自分が何をしてほしいのかもわからなかった。ただ、誰かに——誰でもいいから——今の気持ちを知ってほしかった。
「唯。」
声がした。顔を上げると、そこにはカガミとセイナが立っていた。二人とも息を切らしている。走ってきたのだろう。
「唯ちゃん、大丈夫か!」
カガミが駆け寄る。唯は何も言えなかった。ただ、うつむくだけ。
セイナも唯の隣にしゃがみ込んだ。そっと、唯の肩を抱く。
「唯さん。何があったんですか。」
唯は唇を噛んだ。涙が、またこぼれた。
「……私、ユキに、殴られた。」
「何やて!」カガミの声が怒りに震える。
「だ、大丈夫だから。」
「大丈夫なわけないやろ!」
カガミは立ち上がろうとした。唯はその腕を掴んだ。
「行かないで。」
「唯ちゃん——」
「お願い……もう、行かないで。」
カガミは歯を食いしばった。それでも、唯の手を振りほどけなかった。セイナは唯の背中を優しくトントンと叩く。
「唯さん、ゆっくりでいいです。話してください。」
唯はしばらく黙っていた。やがて、ぽつりぽつりと話し始めた。
「……今日、ユキの誕生日やった。」
「そうなんや。」カガミが小さな声で言う。
「一ヶ月前から準備してた。ベースの弦と、手紙。喜んでくれると思ってたのに……『いらん』って。『いらないって言うとるやろ』って。」
唯の声は、震えていた。
「私は、どうしたらよかったんやろ。どうしたら、ユキに喜んでもらえるんやろ。どうしたら——」
「唯ちゃん。」
「どうしたら、ユキは私を見てくれるんやろ。」
その言葉に、カガミは何も言えなかった。セイナも、ただ唯の背中を叩き続ける。
「私、気づいたんや。ユキは、私のことなんて、最初から見えてへんかった。ただ、私が一方的に、勝手に——」
「唯さん。」
「勝手に、期待して、勝手に——」
唯の声が詰まった。
「勝手に、傷ついてただけなんや。」
カガミは唯の頭をそっと撫でた。
「唯ちゃん、それは違うで。」
「どこが。」
「お前は、ユキのことを本気で思ってた。それだけは、誰にも否定させへん。」
唯は顔を上げた。目は真っ赤で、涙で頬が濡れている。
「……カガミさん。」
「オレたちがおるやん。一緒に考えよ。」
「そうですね。」セイナもうなずく。「唯さん一人で抱え込まないでください。」
唯はもう一度、うつむいた。声が、震える。
「私、もう、わからへんねん。ユキにどう接したらいいのか。これから、どう生きていったらいいのか。もし、ユキがもう私のこと、必要としてへんかったら——」
「唯ちゃん。」
「私、なんのために生きてるんやろ。」
その言葉に、カガミは唯の手を強く握った。
「そんなこと言わんといて。」
「でも——」
「生きる理由なんて、後からついてくるもんや。今は、生きてるだけでええねん。」
唯はカガミの顔を見つめた。その目は、真剣だった。
「……ユキは、FAのステージを見て、嫉妬してたんや。」
「え?」
「名古屋のライブ、映像で見たらしい。それで——『もしあのバンドがなければ、私がここに立ってたはずや』って。」
「唯ちゃん……」
「私は、何も言えんかった。ユキの言う通りやと思ったから。もしかしたら、私がFAに入らなければ、ユキはもっと——」
「唯さん。」セイナが優しく遮った。「それは違います。ユキさんがFAを辞めたのは、ユキさん自身の選択です。」
「でも——」
「唯さんは、唯さんの人生を生きてください。それは、誰のものでもない。」
唯はセイナを見た。その目には、また涙が溜まっていた。
「……セイナさん。」
「唯さんは、優しすぎるんです。自分を犠牲にしてまで、誰かを幸せにしようとする。」
「そんなこと——」
「あります。」カガミが言う。「お前は、いつもそうや。自分のことは後回しで、ユキのことばっかり考えて。」
「……そうかもしれへん。」
唯は小さく笑った。泣き笑いのような、複雑な表情。
「でも、これからは、もう——」
「やめよ。」カガミが言う。「無理にやめようとせんでええ。自分の気持ちに正直になり。」
「カガミさん……。」
「お前は、ユキのこと、好きなんやろ。」
唯は何も言えなかった。代わりに、涙がこぼれた。
「……うん。好きや。小さい頃から、ずっと。でも、ユキは——」
「ユキがどう思おうと、それはユキの勝手。」カガミが言う。「お前の気持ちは、お前のものや。」
「……そうやな。」
唯は顔を上げた。空は、まだ暗い。でも、少しだけ明るくなり始めていた。
「カガミさん、セイナさん。迷惑かけました。」
「ええよ。そんなん、気にせんで。」カガミが笑う。「ほら、立つで。」
カガミが手を差し出す。唯はそれを握って、立ち上がった。膝が少し笑っているけど、それでも前に進もうとしていた。
「さて、どうする?」セイナが聞く。
「とりあえず、どこか温かいところで話そう。」カガミが答える。
「コンビニでも行く?」セイナが提案する。
唯は小さくうなずいた。
三人は歩き出した。夜明け前の街は静かで、時折タクシーが通り過ぎるだけ。
「唯ちゃん。」カガミが言う。
「はい。」
「もう、無理すんな。」
「……うん。」
「何かあったら、いつでも言え。オレたち、FAがおるから。」
「……ありがとう。」
唯の声は、まだ少し震えていた。でも、その目はもう前を向いていた。
もしかしたら、彼女は自分を犠牲にすることを徐々に諦めることができるかもしれない……でもそれには彼女自身の一歩が必要だ。
(From Dandy:
Maybe something's about to change from now on?)




