第81話 反抗期
セイナは、いつからか「可愛い」と言われるのをやめていた。周りの大人たちは「賢い」「しっかりしている」「おとなしい」——そう褒める。それが彼女の肩に少しずつ積もっていった。
小さい頃から、無理をしなくても勉強はできた。授業で聞いたことはすぐに覚え、テストはいつも満点。先生は「岸和田さんは模范生ですね」と言い、クラスメイトは「セイナはすごいな」と羨んだ。セイナはそれが当然だと思っていた。だって、お父さんとお母さんが、いつもそうしろと言うから。
「晴奈。お前はいい学校に入らなあかん。それが、親孝行いうもんや。」
父の言葉はいつもそれだった。仕事から帰ったリビングで、母がお茶を入れ、父がテレビを消す。その瞬間、セイナの一日が始まる。
「うん。」
「お前、どこの中学行きたいんや。」
「……明成がいいです。」
「明成か。私立やな。」
「はい。でも、成績が足りれば——」
「お前ならいけるやろ。」
父の口調には疑いがなかった。セイナは「はい」とだけ言った。頷くこと以外、許されていないような気がした。
母は黙って聞いていることが多かった。時々、セイナの頭を撫でて、「晴奈はええ子や」と言った。その手は優しかったけど、セイナはその言葉の意味がよくわからなかった。『ええ子』って、どういうことだろう。親の言うことを聞いて、いい成績を取って、いい学校に行くこと。それが『ええ子』なら、自分はまだまだ足りない。
明成中学校は、家から電車で四十分の私立校だった。制服は紺のブレザーで、スカートのひだはピシッと決まっている。周りの生徒はみんなお金持ちの家の子で、塾に通い、家庭教師をつけ、休みになれば海外旅行に行く。セイナは図書館で教科書を広げ、書き込んだノートを何度も読み返した。予習、復習、予習、復習。それが彼女の日常だった。
成績はいつもトップ。先生は「岸和田さんは努力家ですね」と言う。でもセイナは「努力」という言葉の意味がよくわからなかった。ただ、やってきただけ。やらなければいけなかったから。そうしなければ、親を悲しませるから。
中学二年生の秋、クラスで進路のアンケートがあった。高校、大学、将来の夢。ほとんどの生徒が「まだ決めていません」と書く中、セイナは迷わず『百合泉女子高等学校』と書いた。そして、その下の『将来の夢』の欄には——『特になし』。
先生はそれを見て、少し驚いた顔をした。「岸和田さんは、何かになりたいものはないの?」「特にありません。」そう答えると、先生は「そう」と言って、それ以上聞かなかった。その日、家に帰って父に見せると、父は軽くうなずいただけだった。「百合泉か。お前なら受かるやろ。」「はい。」「お父さんとお母さんは信じてるからな。」「……はい。」
その『信じてる』という言葉が、セイナにはいつもプレッシャーだった。期待されている。応えなければ。それだけが、彼女の原動力だった。
百合泉女子高等学校。関西で最も名門と言われる私立校。偏差値は高く、制服は上品で、通っている生徒はみんなお金持ちか、さもなくば秀才。成績合格した。合格通知が届いた日、母は珍しく泣いた。「晴奈、すごいやん。お母さん、嬉しいわ。」「よかったな。」父も口元を緩ませた。それだけで、セイナは全て報われた気がした。
しかし、それも束の間だった。
百合泉に入学してすぐ、セイナは自分の“普通”に気づいた。周りの生徒はみんな、中学時代に留学経験があったり、ピアノコンクールで賞を取ったり、両親が医者や弁護士だったりする。セイナには何もなかった。ただ、勉強だけ。それでも、何とか食らいついていった。
違う。成績だけじゃ足りなかった。百合泉では、成績が良くても学年で十番以内に入らなければ“出来る子”とは言われない。セイナはいつも十五番から二十番の間をうろついていた。「もっと頑張らないと。」そう思う日々が続いた。
そんなある日、父が言った。
「晴奈、東大を目指せ。」
「……え?」
「百合泉に入ったんや。東大に行かんと、意味ないやろ。」
「で、でも、私——」
「できるやろ?」
父の声は低かった。そこには「いいえ」という答えを許さない重みがあった。セイナは「はい」としか言えなかった。
それから、セイナの生活はさらに忙しくなった。朝五時に起きて、電車の中で単語帳を開く。授業が終われば図書館に直行し、閉館まで勉強する。家に帰ってからも自分の部屋で参考書を広げる。寝るのはいつも十二時過ぎ。
「晴奈、ご飯食べた?」母の声が時々聞こえる。「食べました。」「無理しやな。」「大丈夫です。」そう答えながらも、自分の頬がこけていくのがわかった。体重は減り、目はいつも充血している。それでも、手を止めるわけにはいかなかった。
ある日の朝、鏡を見て、自分が泣いていることに気づいた。涙の理由はわからなかった。ただ、頬を伝うその水滴が、冷たかった。
学校の友達は「岸和田さんはすごいね、いつも勉強してて」と言う。セイナは「ありがとう」と笑う。その笑顔が作られたものだと、誰も気づかない。気づくはずがない。彼女たちはセイナの“裏”を見たことがないから。
そんなある日、セイナは一人で学校の音楽室に足を運んだ。特に目的があったわけじゃない。ただ、何かから逃れたかった。ピアノの前に座り、適当に鍵盤を叩く。和音が一つ、部屋に響く。それがなんだか、今の自分の気持ちみたいだった。
「あなた、誰?」後ろから声がした。振り返ると、軽音部の部長らしい女子が立っていた。「ご、ごめんなさい。何となく入ってしまって。」「何か弾けるの?」「ピアノが、少し。」「じゃあ、これ、やってみる?」
差し出されたのは、ギターだった。セイナは初めてそれに触れた。指で弦をはじくと、低い音が響いた。……楽しい。そう思った。
それから、セイナは軽音部の練習に顔を出すようになった。ギターを借りて、コードを教えてもらう。最初はみんな優しかった。でも、すぐに言われた。「岸和田さん、なんかリズムずれてない?」「もう少し練習した方がいいよ。」セイナは唇を噛んだ。自分でもわかっていた。手が遅い。コードがすぐに押さえられない。リズムもところどころで走る。
「やっぱり、向いてないのかな。」
そう思った。でも、それでもギターを弾いている時だけは、勉強のことを忘れられた。だから、やめられなかった。
「お母さん、ちょっと相談があるんやけど。」
ある夜、セイナはリビングで母に切り出した。
「なんや。」
「私、軽音部に入りたいねん。」
母の手が止まった。編み物の針がカチッと音を立てる。
「軽音部?」
「うん。」
「それ、勉強に集中できへんようになるで。」
「そんなことない。」
「お父さんは何て言うと思う?」
セイナは答えられなかった。父はきっと反対する。そう思ったから。
案の定、父は「そんな暇があったら勉強しろ」の一言だった。
「でも、私——」
「東大に行くんやろ。余計なことは考えるな。」
それ以上は何も言えなかった。
それでも、セイナはギターを諦められなかった。図書館に行くふりをして、楽器店に通う。店先に並んだギターを眺めながら、いつか自分のものにしたいと思った。お金がない。だから、小遣いをコツコツ貯めた。年賀状を買うのをやめ、友達とのランチも断り、帰り道のジュースも我慢した。そうして一年かけて、やっと中古のギターを買うことができた。ボディには小さな傷があったけど、それが愛おしかった。
しかし、家に持ち帰るわけにはいかない。両親に隠れて弾く場所を探していた時、ふと『MOCA』というライブハウスを思い出した。学校の友達が「あそこ、安く練習室を貸してくれる」と言っていた。セイナは勇気を振り絞って、店に電話をかけた。
「もしもし、あの、高校生なんですけど、楽器を預かってもらえたりしますか?」
『え?』相手は少し驚いた様子だった。セイナは事情を話した。両親に内緒でギターを練習していること、家に持ち帰れないこと。店長の女の人はしばらく黙っていたが、やがて言った。
「……わかった。預かったる。ただし、自分で責任持つんやで。」
「はい!ありがとうございます!」
それが、MOCAの店長——ウエダさんとの出会いだった。
それからセイナは、週に二、三度、放課後にMOCAに通った。練習室を借りて、黙々とギターを弾く。コードを覚え、ストロークを練習し、簡単な曲を弾けるようになった。週末になると、朝から閉店までずっと練習していた。指はいつも血豆だらけで、絆創膏が手放せなかった。
ウエダさんは時々、セイナの様子を見に来た。
「まだやってたんか。」
「はい。」
「そんなに練習して、何になるん?」
「……わかりません。」
「お前、変わっとるなあ。」
ウエダさんはそう言って笑った。悪意はなかった。ただ、セイナはそれでも続けた。
ある日、セイナはウエダさんに相談した。
「ウエダさん、私、バンドを組みたいんです。」
「ほう。」
「でも、なかなか声をかけてもらえなくて。」
「当たり前やろ。まだ下手くそやし。」
「……そうですよね。」
セイナはうつむいた。ウエダさんはため息をついて、言った。
「まあ、頑張れ。」
「はい。」
それからも、セイナはいくつかのバンドのオーディションを受けた。しかし、結果はいつも同じだった。
「岸和田さん、悪いけど——」
「レベルが合わないと思う。」
「ごめんなさい。」
断られるたびに、セイナはMOCAに戻り、練習室にこもった。ギターを弾きながら、何度も思った。『私には向いてないのかな。』でも、やめられなかった。なぜだろう。わからなかった。
そんなある日、セイナは公園でストリートライブをしているグループを見かけた。三人の女の子。ボーカルはどもりながらも、歌い出すとまるで別人のように輝いていた。ギターの子は元気いっぱいに飛び跳ね、ドラムの子は冷静にリズムを刻んでいた。素人目に見ても、完成度は高くなかった。でも——楽しそうだった。
セイナはその場から動けなかった。
演奏が終わり、片付けを始めた彼女たちに向かって、声をかけた。
「あの……!」
「ん?」振り返ったのは、オレンジ色の髪の子——カガミだった。
「わ、私もバンドをやりたいんです。ギターを弾けます。まだ下手ですけど……もしよかったら、入れてくれませんか?」
セイナは早口で言って、深々と頭を下げた。沈黙。冷や汗が背中を伝う。
「ええよ。」
顔を上げると、カガミがにこにこして手を差し出していた。
「歓迎するで!」
それが、FAとの出会いだった。
あれから、どれだけの月日が経っただろう。セイナはまだ下手くそだ。キリカに「リズム遅れてる」と注意されるし、ヒデミに「もっとタイトに」と言われる。アコは優しく「もう少し手首を柔らかく」と教えてくれる。ハナルはどもりながら「い、一緒に頑張りましょう」と言う。カガミはいつも「大丈夫、大丈夫」と笑う。
家に帰ると、両親は相変わらず「東大に行け」と言う。セイナは「はい」と答える。でも、心の中ではもう違うことを考えている。
『私は、音楽を続けたい。』
それが、今の彼女の答えだった。
今、セイナは自分の部屋でギターの弦を交換している。新しい弦はピカピカで、少しだけ緊張する。まだ音は出していない。ちょっとした勇気が必要だった。
「ちゃんと音が出ますように。」
そっと弦を弾いた。澄んだ音が響く。隣の部屋から、お母さんの声が聞こえる。「晴奈、明日は塾やで。」「はい。」「遅れんでな。」「わかりました。」
セイナはギターをケースにしまい、窓の外を見た。もうすぐ夜明けだ。今日も一日、頑張らなければ。
それでいい。これでいいんだ。
(From Dandy:
The story of a girl who was always told to be "good." She finally found something she truly loves.)




