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第80話 人生態度

ヒデミは物心ついた頃から、怒られる子どもだった。決して悪いことをするわけではない。ただ、動きが遅かった。朝、布団から出るまでに三十分。ご飯を食べ終わるまでに一時間。宿題を終わらせる気になれない時は、机の前に座ったまま、何もしないで一時間過ごす。母は呆れたように笑い、父は「仕方ない」と肩をすくめた。妹の真由美は、そんなヒデミの隣で、てきぱきと支度を済ませて、「お姉ちゃん、遅い!」とせかす。それが日常だった。

小学校の担任は口を揃えて言った。「白石さんは、もう少し頑張ればもっと伸びるのに。」ヒデミは「はあ」と返事をして、心の中で思った。『頑張ったら、何かいいことあるん?』教室の窓から見える空はいつも青くて、それだけで十分だった。

成績は悪くなかった。いや、むしろ良い方だった。授業中はいつもぼんやりしているのに、テストになるとそこそこの点数を取る。先生は不思議そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。ヒデミにとって学校は、ただそこにある場所だった。別に好きじゃないけど、嫌いでもない。友達もいた。一緒に帰って、遊んで、たまに喧嘩もする。普通だった。普通すぎて、特に何の思い出もない。

変わったのは中学に入ってからだった。

ヒデミの通った中学校は、ごく普通の公立校だった。入学してすぐ、彼女はなんとなく浮いていることに気づいた。理由はわからなかった。いつも通り、適当に過ごしていただけなのに。ある時、クラスの女子グループから、呼び出しを受けた。

「白石さんって、いつも偉そう。」

一番前の女子が言った。ヒデミは「そう?」と返した。別に偉そうにしたつもりはない。ただ、自分のペースで生きているだけ。でも、その返事がさらに彼女たちの神経を逆撫でしたらしい。

「図に乗ってる。」

「協調性がない。」

「何であんな態度なん。」

罵詈雑言が飛んでくる。ヒデミは黙って聞いていた。反論するのも面倒だったし、泣くほど傷ついてもいなかった。ただ、『ああ、こういうこともあるんや』と、他人事のように思った。

それから、ヒデミの日常は静かに、しかし確実に変わった。授業中に発言すると、誰かが小さく笑う。休み時間に話しかけると、無視される。たまに向けられる言葉は、いつも冷たかった。「白石って、空気読めないんだね。」「うざい。」「なんでいるんだろうね、ここに。」

ヒデミは、それでも動じなかった。別に彼女たちに好かれようと思っていなかったし、友達を作りたいと思ったこともなかった。ただ、ずっと気になっていたのは、音楽の時間だけだった。

音楽の授業で流れる曲。合唱のハーモニー。それだけが、彼女の心に響いた。先生が「もっと声を出して」と言うと、他の生徒は恥ずかしそうに口を小さく開けるだけだった。でもヒデミは違った。歌うのが好きだった。特に、低い音域のメロディーが好きだった。それが、彼女の数少ない楽しみだった。

中学二年生の時、担任から呼び出された。

「白石さん、進路について話があるんやけど。」

ヒデミは「はい」と答えた。先生は少し迷った後、言った。「お前の成績なら、もう少し上の高校を目指せる。今から頑張れば——」

「いりません。」

ヒデミは即座に答えた。

「小坂に行きます。」

先生は驚いた顔をした。小坂女子高校は、いわゆる“底辺校”として地元では有名だった。進学率は低く、校則は緩く、やる気のある生徒はほとんどいない。なぜそこを選ぶのか、先生には理解できなかった。

「なんで?」

「別に。」

ヒデミはそれだけ言って、職員室を出た。決めていた。小坂に行く。そこなら、誰も自分のことを気にしないだろう。成績も、態度も、何も。

真由美はその頃、ピアノを習い始めていた。小さい頃から耳が良く、先生も「才能がある」と褒めていた。ヒデミは時々、真由美の練習に付き合った。ピアノの前に座る真由美の背中は小さくて、でもピンと伸びていて、何だか眩しかった。

「お姉ちゃんも、何かやればいいのに。」

真由美が鍵盤を叩きながら言った。

「何を。」

「さあ。でも、お姉ちゃん、暇そうやし。」

確かに、暇だった。中学の間も、ヒデミは相変わらず友達がいなかった。授業が終わればすぐに帰宅し、自分の部屋でぼんやりと過ごす。それが日常だった。そんなある日、真由美がテレビをつけた。そこには、バンドの演奏が映っていた。ボーカル、ギター、ベース、ドラム。四人の男が、熱心に音を奏でている。

「お姉ちゃん、これ、カッコよくない?」

「別に。」

そう言いながらも、ヒデミの目は画面から離れなかった。特に、低い音を響かせている楽器に惹かれた。あとで調べたら、それはベースというらしい。ゴロゴロと唸るような、それでいて心臓の鼓動のように地面を震わせる音。初めて聴いた時、ヒデミは思った。『これや。』次の日、彼女は近くの楽器店に行き、一番安いベースを買った。中古で、ボディに傷があった。店員が「初心者向けですよ」と言って、教則本も一緒に渡してくれた。

家に帰って、部屋にこもって、ベースを触った。最初は何が何だかわからなかった。指が弦の間をうまく動かない。押さえる強さがわからなくて、音がビビる。でも、それが楽しかった。一日に何時間も練習した。指が腫れて、皮がむけた。それでも、やめられなかった。

真由美が時々、部屋を覗いた。

「お姉ちゃん、変な音してる。」

「うるさい。」

「でも、ちょっと上手くなった気がする。」

「……そうか。」

それだけの会話でも、なぜか嬉しかった。

小坂女子高校に入学して、ヒデミは軽音部に入った。初心者歓迎という文字に惹かれて、見学に行くと、先輩たちが「一緒にやらない?」と声をかけてくれた。ヒデミは「はい」と答えた。それが、初めてのバンド経験だった。

しかし、すぐにわかった。小坂の軽音部は、ただの溜まり場だった。練習は適当で、目標もない。先輩たちはダラダラと話し込んで、楽器はたまに触る程度。文化祭のライブは毎年同じ曲のコピーで、客はまばら。ヒデミは思った。『ここも、同じや。』それでも、ベースを弾くことだけは楽しかった。週に一度の練習が、彼女の数少ない楽しみだった。

ある日、顧問の先生に呼び出された。

「白石さん、お前、他のバンドを組まないか?」

「は?」

「市内のライブハウスで、コンテストがあるんや。軽音部では出られへんけど、お前のベースの腕は確かや。他の学校の子たちと組んでみいひん?」

ヒデミは少し迷ったが、結局引き受けた。メンバーは、他校のギターとドラムとボーカル。みんな、それぞれの学校で浮いていたり、満足できなかったりして、このコンテストに賭けている子たちだった。

練習は週に三回。ライブハウスのスタジオを借りて、夜遅くまでやった。最初はぎこちなかったけど、だんだんと息が合ってきた。

「よし、次、サビいくで!」

ギターの掛け声で、曲が始まる。ヒデミは指を動かす。低い音が、体を震わせる。気づけば、夢中になっていた。時間を忘れて、ベースを弾いていた。それが、どれだけ久しぶりか、自分でもわからなかった。

コンテストは、予選で落ちた。でも、悔しくなかった。

「楽しかった。」

それだけが、心に残った。

メンバーとはすぐに疎遠になった。それぞれの進路や、自分のバンドに戻ったりで、自然消滅した。ヒデミは特に何も思わなかった。別に、寂しくもなかった。ただ、またベースを一人で弾く日々が戻ってきた。

高校三年生の秋、真由美が言った。

「お姉ちゃん、大学、どこ行くん?」

「和歌山大学。」

「へえ。なんのため?」

「別に。」

特にこれといってやりたいことがあったわけじゃない。ただ、家から通える範囲で、一番レベルの高いところを選んだだけ。両親は喜んだ。成績が良いのは昔から知っていたけど、まさか国立大学に合格するとは思っていなかったらしい。担任の先生も驚いていた。

「白石さん、よく頑張ったな。」

「……はい。」

『頑張ってないけどな。』そう思いながらも、口には出さなかった。

卒業式の日、ヒデミは呼び出しを受けた。廊下の隅で、かつて自分をいじめた女子たちが立っていた。彼女たちは、式が終わるのを待っていたらしい。

「白石さん、卒業おめでとう。」

一番前の女子が言った。その口調は、相変わらず嫌味っぽい。ヒデミは無視して通り過ぎようとした。その時、別の女子が言った。

「ねえ、あんた、小坂に来て、後悔してないの?」

「……は?」

「だって、あんたの成績なら、もっと上の学校に行けたのに。なんでうちの学校に来たの?馬鹿じゃないの?」

ヒデミは足を止めた。振り返って、彼女たちを見た。

「後悔してへんで。」

「え?」

「ここに来たのは、自分の意思や。あんたらに迷惑かけるつもりはなかったけど、そういう嫌がらせは、ちょっと楽しかったわ。」

ヒデミはそう言って、自分の卒業証書の筒を手にした。パカッと蓋を開けて、中から証書を取り出す。

「あんた、何するつもり……」

ヒデミは両手で証書を持って——

ビリッ。

真っ二つに破った。

「な、何してるん!」

「卒業おめでとう。あんたらも、せいぜい頑張りや。」

ヒデミは破った証書をその場に捨てて、背を向けた。その後ろ姿を見送るように、彼女たちの驚いた顔が、ぽかんと口を開けていた。

和歌山大学に入学して、ヒデミはさらに自由になった。講義には適当に出て、単位を落とさない程度に勉強する。それ以外の時間は、バイトか、ベースを弾くか、寝るか。特にこれといった目標もなく、ただ毎日を過ごしていた。

そんなある日、友達に誘われて行ったカフェで、彼女は一人の店員に出会った。白いエプロンを着て、髪を一つに結んでいる。年は自分より少し下に見えた。挙動不審で、手が震えていた。

「いらっしゃいませ。」

その声は小さくて、かすれていた。日本語もちょっとおかしい。

「あんた、日本人?」

「……はい。いえ、韓国から来ました。」

「へえ。で、ここのコーヒー、美味しいん?」

「えっと……自信あります。特に、アフォガード。」

「アフォガード?」

「アイスクリームにエスプレッソをかけたやつです。」

ヒデミは試しにそれを頼んだ。運ばれてきたそれは、見た目も可愛らしく、アイスクリームの上に湯気が立っていた。一口食べて、目を見開いた。

「うまっ!」

「あ、ありがとうございます。」

店員の顔が、ほんのり赤くなった。それが、アコとの出会いだった。

それから、ヒデミは毎日のようにそのカフェに通った。決まって頼むのはアフォガード。店員はいつも同じ子だった。名前はアコ。韓国人で、日本語を勉強中らしい。話してみると、とても真面目で、一生懸命だった。不器用で、よく失敗する。でも、その度に「すみません」と謝る姿が、何だか放っておけなかった。

「なあ、あんた、バンドやらへん?」

ある日、ヒデミは思い切って声をかけた。

「バンド?」

「うち、ベース弾くねん。ギターとドラムとボーカルは、別の子がおる。あんた、キーボードできるんやろ?」

「……はい。でも、私、まだ下手で——」

「ええねん。一緒にやろ。」

アコは少し迷った末、うなずいた。それが、初めての本格的なバンド活動だった。

バンドは、それなりに楽しかった。週に一度、スタジオに集まって、好きな曲をコピーしたり、たまにオリジナルを作ったり。でも、次第にメンバーの間で軋轢が生まれた。練習の頻度、曲の方向性、ライブの出場回数。些細なことで意見がぶつかった。

ある日、ボーカルの子が言った。

「もういいわ。私、辞める。」

「え?」ギターの子が驚く。

「だって、私ら、全然前に進んでへん。ただの遊びやん。」

「遊びでええやん。」

ヒデミはそう言った。すると、ボーカルの子が怒った。

「あんたはいつもそれ!やる気ないなら、最初から来なきゃいいのに!」

「やる気はあるで。」

「あったら、もっと真剣にやるはず!」

その言葉に、ヒデミは何も言い返せなかった。真剣にやってないわけじゃない。ただ、彼女なりのやり方で、音楽と向き合っているだけだ。

それでも、バンドは空中分解した。残ったのは、ヒデミとアコだけ。二人でスタジオにいても、何をすればいいのかわからなかった。

「……どうする?」

アコが小さな声で聞いた。

「知らん。」

ヒデミはだるそうに答えた。

でも、その時、ふと思い出した。昔、カフェでアコが作ってくれたアフォガードのこと。不器用で、拙くて、でも温かかった。音楽も、それでいいんじゃないか。

「なあ、もう一回、やってみるか。」

「何を?」

「バンド。」

アコは驚いた顔をしたけど、すぐに笑った。

「……うん。」

それから、二人で新しいバンドを探し始めた。SNSでメンバー募集の投稿を見つけては、連絡してみる。でも、なかなか合わない。

そんなある日、『フォルティシモ・アリーナ』というバンドの募集を見つけた。キーボーディストとベーシストを探しているらしい。

『興味あります。一度会えませんか?』

(From Dandy:

I'm trying to lose weight lately... Wishing me luck everyone!)

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