第82話 ノイズ排除
カガミは、物心ついた頃から「可愛い」と言われたことがなかった。代わりに「元気」「活発」「男みたい」と言われて育った。その言葉に特に傷ついたわけではない。でも、どこかで自分は他の女の子とは違うんだと、なんとなく感じていた。
岩橋家は、いつも賑やかだった。父のマサルは修理工場を営んでいて、腕のいい整備士として地元で知られていた。母のヨシコは明るくてしっかり者で、店の経理も家事も一人でこなす。兄のトモはカガミより五歳上で、小さい頃はいたずらばかりしているやんちゃ坊主だった。
「カガミ!また泥んこになって!」
ヨシコの声が響く。カガミは公園から帰ってきたところで、服はドロドロ、靴の中まで泥だらけだった。
「だって、面白いんやもん!」
「もう、あなたは……お兄ちゃんもお父さんも、あなたに甘いから。早く着替えなさい。」
「はーい!」
カガミは庭の水道で足を洗いながら、家の中へ駆け込んだ。リビングでは、マサルがテレビを見ながらコーヒーを飲んでいる。
「おかえり。今日はどこで遊んだんや?」
「公園!泥んこ遊び!」
「そりゃあ、楽しかったやろなあ。」
マサルは笑いながら、カガミの頭を撫でた。その手は大きくて温かかった。
トモは自分の部屋から顔を出して、「おい、カガミ。また母ちゃんに怒られとったやろ。」とからかう。
「うるさいな!」
「ははは。お前の靴下、洗濯機に直入れすんなよ。母ちゃんがまた怒るで。」
「わかっとるわ!」
それが、岩橋家の日常だった。うるさくて、賑やかで、でもどこか温かい。
小学二年生の時、カガミは初めて自分の顔のことを意識した。クラスで「かわいい」と言われるのはいつも他の女の子だった。自分を振り返る男子はいない。それどころか、クラスの男子たちはカガミのことを「友達」として接する。
「カガミ、一緒にサッカーやろ!」
「いいよ!」
カガミは喜んで参加した。でも、その日、家に帰って鏡を見た時、ふと気づいた。自分の顔には、他の女の子が持っている「かわいさ」が欠けている。
「お母さん。」
「なんや?」
「私、かわいくない?」
ヨシコは一瞬驚いた顔をして、それから優しく笑った。
「そんなことないよ。カガミはカガミらしくて、それが一番かわいいんやで。」
「ほんま?」
「ほんま。」
ヨシコはカガミの頭を撫でた。その言葉に、カガミは少しだけ安心した。でも、心の隅に残る違和感は消えなかった。
小学五年生の時、クラスの男子に言われた。
「カガミって、女の子に見えへん。男みたい。」
「ちゃうわ!私、女の子や!」
「でも、顔、男みたいやん。」
カガミはその瞬間、カッとなった。相手の胸ぐらを掴んで、殴りかかった。
「何すんねん!」
「もう一回言うてみい!」
担任の先生に引き離されるまで、二人は取っ組み合いを続けた。結局、カガミは一発殴られ、相手も一発殴った。でも、カガミはそれ以上に傷ついていた。「男みたい」——その言葉が、ずっと心に残った。
家に帰ると、ヨシコが血のついた体操服を見て、驚いた。
「カガミ!喧嘩したんか!」
「……うん。」
「なんで?」
「……『男みたい』って言われたから。」
ヨシコは一瞬黙った。それから、ため息をついた。
「もう、あなたは……殴る前に、ちゃんと話しなさい。」
「でも——」
「でも、やない。次からは暴力で解決せんと、お母さんに言いなさい。」
「……はい。」
その夜、カガミは自分の部屋で鏡を見ていた。顔のほくろ。そばかす。男っぽい輪郭。どうやったら、もっと「女の子らしくなれる」のかわからなかった。
中学に上がって、カガミの悩みはさらに深くなった。周りの女の子たちはスカートを履き、化粧を始め、可愛い服を着ている。カガミは変わらずジャージかジーンズ。体操服の下に何か着ることもなく、汗をかいても気にしない。ある日、クラスの女子から言われた。
「カガミって、なんでスカート履かへんの?」
「履きたくないから。」
「でも、可愛いのに。」
「……可愛くないやん。」
その言葉に、女子は困ったように笑った。カガミはその笑顔が、自分に向けられた哀れみのように感じられた。
カガミの顔には、そばかすがあった。小学生の頃はまだ薄かったのに、中学に入るにつれてはっきりと見えるようになった。鏡を見るたびに、自分の顔に浮かぶ斑点が気になる。どうにかして隠したい。隠せないなら、せめて目立たなくしたい。
カガミはこっそりと、ヨシコの化粧品を借りた。ファンデーションを指に取って、そばかすの上に塗る。よれた。目の下がまだらになった。時間をかけて直していると、ヨシコが寝室に入ってきた。
「カガミ、何しとるん?」
「……なんでも。」
「なんでも、ちゃうやろ。それ、お母さんのファンデーションやん。」
「……使ってもええやん。」
「使ってもええけど、なんで急に?」
カガミは黙った。ヨシコは何かを察したように、カガミの隣に座った。
「カガミ、お母さんに話してみ。」
「……そばかす、気になるねん。なんか、ダサくて。」
「そんなことないよ。」
「あるんや!」
ヨシコはもう一度、カガミの頭を撫でた。
「それ、あなたの個性やで。隠さんでもええんとちゃう?」
「でも——」
「カガミはカガミでええねん。無理に変わらんでも。」
ヨシコの言葉は優しかった。でも、カガミはまだ納得できなかった。
ある日、カガミはトモに相談した。
「お兄ちゃん、お前も小さい頃、いたずらばっかりしとったんやろ?」
「ああ。よく母ちゃんに怒られとったわ。」
「そんで、いつから落ち着いたん?」
「……さあ。高校入ってからやないか。」
「ふうん。」
カガミは自分の兄を見上げた。今のトモは、自動車整備士の資格を取るために専門学校に通っている。真面目で、しっかりしていて、子どもの頃の姿は想像できない。
「なんで聞くんや。」トモが聞く。
「別に。」
「もしかして、また喧嘩したんか?」
「ちゃうわ!」
「ふうん。」
トモは笑って、カガミの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「カガミは、カガミのままでええねん。変わらんで。」
「……お兄ちゃんまでそんなこと言うんや。」
「ほんまのことやから。」
トモの言葉は軽かったけど、なぜかカガミの胸に響いた。
中学二年生の秋、カガミは遂にある決心をした。髪を染める。オレンジ色。目立つ色。周りが「男みたい」と言うなら、それを逆手に取ってやろうと思った。
「ほんまに染めるんか?」床屋の爺さんが聞く。
「はい。」
「学校はええんか?」
「バレへんようにする。」
「……お前さん、大物になるわ。」
爺さんは笑いながら、カガミの髪を染め始めた。出来上がった自分の姿を見て、カガミは少し驚いた。オレンジ色の髪が、太陽の光を浴びてキラキラと輝いている。
「これや!」
カガミはその日から、自信を持って歩けるようになった。髪を染めてから、周りの反応も変わった。「カッコいい」「目立つな」――いい意味で。でも、それだけでは足りなかった。そばかすはまだある。自分はやっぱり「男みたい」だという思いは、消えなかった。
そんなある日の晩、父のマサルがカガミの部屋を訪ねてきた。
「カガミ、ちょっとええか。」
「なんや。」
「これ、やる。」
マサルが差し出したのは、服の袋だった。カガミが受け取って開けると、中から黒いTシャツと、赤いチェックのスカートが出てきた。いや――スカートのように見えて、それは短いパンツだった。遊び心のあるデザインで、カガミの好みにぴったりだった。
「これ……どこで?」
「昔、お父さんが若い頃に買うたやつや。ずっと取ってあってん。」
「なんで?」
「お前にあげようと思て。」
カガミはその服を広げて、自分の体に当ててみた。黒いTシャツに、赤いチェックのパンツ。動きやすそうで、可愛い。お父さんがこれを選んでくれたことが、何より嬉しかった。
「お父さん、なんで急に?」
「急にやないで。ずっと前から考えてたんや。」
マサルはカガミの隣に座って、言った。
「カガミ、お前は自分の顔のこと、気にしてるやろ。」
「……うん。」
「でもな、お父さんは思うねん。お前はそのままで、一番可愛いって。」
「そんなこと……」
「ほんまやで。」
マサルは真剣な目でカガミを見た。
「女の子らしいとか、男の子らしいとか、そんなん関係ない。お前はお前。それでええねん。」
カガミは自分の父の顔を見つめた。マサルは普段、あまり多くを語らない。でも、その言葉は一つ一つが心に沁みた。
「それを着て、好きなように生きなさい。」
「……うん。」
その日から、カガミはその服を宝物のように着るようになった。スカートは履かない。どうしても必要な時だけ履く。それが彼女のスタイルだった。
中学三年生の夏、カガミは自分にある変化が起きていることに気づいた。鏡を見るのが、以前ほど辛くない。そばかすはまだある。でも、それが気にならなくなった。なぜだろう。
「カガミ、ちょっと痩せたんちゃう?」
友達の一言で、自分の体が変化していることに気づいた。身長も伸びた。手足がスッと長くなり、顔の輪郭も少し引き締まった。オレンジ色の髪が、日に焼けた肌に合っていた。
中学の卒業式の日、カガミはマサルに言われた通り、あの黒いTシャツと赤いチェックのパンツを着ていった。周りの女子はみんなスカートを履いている。カガミだけが違う格好だった。でも、もう気にならなかった。
「カガミ、写真撮ろ!」友達がカメラを向ける。カガミはピースサインをして、大きく笑った。
その写真を見て、カガミは自分が変わったことに気づいた。顔つきが、小学生の頃とは全く違う。自分でも驚くほど、はっきりとした輪郭。焼けた肌。オレンジ色の髪。そばかすも、アクセントになっている。
高校に上がってから、カガミはさらに自由になった。髪はもっと明るく染め、耳にはピアスを開けた。周りはうるさいと言うけど、気にしない。
「カガミって、かっこいいね。」女子からそう言われることが増えた。嬉しかった。
でも、決して満足しなかった。もっと。もっと上を目指したい。
高校一年生の夏休み、マサルがカガミを呼び出した。リビングに行くと、ソファの横にギターケースが置いてある。
「これ、お前にやる。」
マサルはギターケースを開けた。中には、白いストラトキャスター。少し擦り傷があるけど、弦はピカピカに張り替えてある。
「これ、お父さんのギター?」
「そうや。若い頃にバンドで使うてたやつ。もう長いこと触ってへんかったけど、お前なら使ってくれると思て。」
カガミはギターを手に取った。ずっしりと重い。でも、不思議としっくりきた。
「これ、私がもらってもええん?」
「もちろん。」
マサルは笑った。
「カガミ、お前はロックに向いとる。」
「なんで?」
「だって、お前は昔から自分の信じた道を突き進むタイプや。それに、負けず嫌いで、熱い。ロックンローラーそのものや。」
カガミはギターを抱きしめた。嬉しくて、涙が出そうだった。
「お父さん、ありがとう。」
「礼なんていらん。」
マサルはカガミの頭をポンと叩いた。
「いけ。お前の道を。そして、お父さんのぶんまで輝け。」
「……うん!」
それが、カガミがギターを始めたきっかけだった。
それからのカガミは、毎日のようにギターを練習した。コードを覚え、ストロークを練習し、好きな曲のコピーを始めた。家で練習すると、トモがうるさいとうるさくて、よく喧嘩になった。それでも続けた。楽しかったから。
「カガミ、足臭い!」
「うるさい!」
「ほんまやで。靴下、自分で洗えよ。」
「洗っとるわ!」
それが日常だった。ヨシコも時々「カガミ、ちゃんと風呂入りなさい」と言う。カガミはその度に「入っとる!」と怒鳴り返す。でも、どこか温かかった。
高校に入って、カガミは決意した。バンドを組む。自分でゼロから立ち上げる。メンバー探しから始めなければならなかった。
まず見つけたのは、隣の席のハナルだった。どもるけど、歌が上手い。ノートに書き留めた歌詞を見た時、直感で「この子しかいない」と思った。
「ハナルちゃん、バンドやらへん?」
「え?」
「歌、上手いやん。一緒にやろ!」
ハナルは迷っていた。でも、カガミが引っ張るようにして、連れて行った。
それからキリカを見つけた。MOCAの練習室で、一人でドラムを叩いていた。無言で、でもめちゃくちゃかっこよかった。
「すごいやん!一緒にやらへん?」
「……別に。」
その返事だけで、カガミは確信した。この子は来る。
セイナが加わったのは、公園でストリートライブをしていた時だった。
「あの……私もバンドをやりたいんです。ギターを弾けます。」
「ええよ!」
カガミは即答した。何も考えていなかった。でも、それでよかった。
アコとヒデミは、SNSでの募集を見て連絡をくれた。『フォルティシモ・アリーナ』。それが、彼女たちのバンド名だった。
あれから、どれだけの月日が経っただろう。カガミはいつも走り続けている。バンドの練習、ライブの準備、新しい曲の制作。やることが山積みで、寝る時間も惜しい。
「カガミ、ちょっと休め。」キリカが言う。
「まだいける!」
「無理すんな。」ヒデミがだるそうに。
「大丈夫やて!」
「カガミさん、お茶でも飲みませんか。」セイナがカップを差し出す。
「あ、ありがとう。」
「か、カガミさん、ちょっと休憩しませんか。」ハナルが遠慮がちに言う。
「……そうやな。少しだけ。」
カガミはソファに座って、お茶を飲んだ。温かい。体の芯まで染み渡る。アコが隣に座って、ヒデミの肩に寄りかかる。
「お父さん、私はやってるで。」
カガミは心の中で呟いた。『お前のぶんまで、輝くから。』
それが、彼女の原動力だった。
今、カガミは自分のギターを抱えて、次の曲の練習をしている。コードを押さえ、弦をはじく。音が鳴る。今日も一日が始まる。
(From Dandy:
Kagami's past. The girl who was told she looked like a boy. Her father's words saved her. Now she plays guitar to shine brighter than anyone.)




