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第60話 人形の家

月曜日。午前九時。

二日前にはインスタントラーメンを食べて、歌の練習もして、一緒にいろんなところを遊び回った。でも今は……

百合泉女子高等学校の正門前。春の日差しが校舎を柔らかく照らしている。桜の木はもう葉を茂らせ、風が吹くたびに若葉の匂いを運んでくる。

今日は退学手続きのため、キリカは久しぶりにこの門をくぐろうとしていた。制服はもう着ていない。白いブラウスに黒のパンツ。肩には小さなバッグ。中には、身分証明書と、数枚の写真——FAのメンバーと撮ったものだけが入っている。

「キリカちゃん、本当に一人で大丈夫?」カガミが心配そうに覗き込む。

「あんたが一緒に来たら、余計に目立つやろ。」キリカは冷静に返す。「それに、これは自分の問題や。自分で終わらせる。」

「で、でも……」

「大丈夫。」キリカはカガミの肩を軽く叩いた。「すぐ戻る。待っといて。」

カガミはまだ何か言いたそうだったが、キリカの目が真剣だったので、こくんとうなずいた。「わかった。あのいつものコンビニで待っとるで。」

「うん。」

カガミが歩き去るのを見送って、キリカは校門に向かって歩き出した。正面の守衛所には、見慣れない男が立っていた。スーツ姿ではない。黒のジャンパーに黒のズボン。サングラスをかけている。明らかに普通の守衛ではなかった。キリカの足が止まった。見覚えがある。あれは——父の運転手の一人だ。以前、家にいた時、何度か見かけたことがある。

「お嬢様。」男が一歩前に出た。「お久しぶりです。」

「……なんの用や。」キリカの声は冷たい。

「若様がお迎えに上がるようにと。」男は無表情で言う。「車をご用意しております。どうぞ——」

「もうええわ。」

キリカは横を通り抜けようとした。その時、もう一人の男が背後から現れた。ガタイが良くて、同じく黒い服。彼はキリカの進路を塞ぐように立った。

「お嬢様、無駄な真似はやめてください。」

「ここ、学校やで。」キリカは二人を睨みつける。「何する気。」

「無理はしません。」最初の男が言う。「お嬢様がおとなしく車に乗っていただければそれで結構です。」

「乗らんって言うたら。」

「その場合は——」男が一歩詰める。「少々、強引になるかもしれません。」

キリカは唇を噛んだ。周りを見ると、登校する生徒たちが遠巻きに見ている。誰も助けに入らない。怖いのだ。寒川家の威光に。キリカは深く息を吸った。

「ここで騒ぎになったら、どっちが損すると思う。」

「お嬢様——」

「今すぐどけ。さもないと、大声出すから。」

男たちは顔を見合わせた。その時、校舎の方から一人の女が歩いてきた。ヒールの音が、アスファルトにカツカツと響く。スーツ姿。髪はきっちりまとめている。目つきが鋭い——教頭のようだった。

「何事ですか。」女が男たちの前に立つ。

「あ、いや——」

「この方は、うちの生徒の保護者ですか。」

「えっと……」

「違うなら、立ち退いてください。学校の敷地内での無断営業は禁じられています。」

男たちはたじろいだ。教頭の迫力に押されたのだ。キリカはその隙に門をくぐった。振り返らずに。足早に。校舎の中へ。

職員室のドアを開けると、担任の先生がいた。窓際の席で、書類を整理している。キリカを見て、一瞬驚いた顔をした。

「寒川……いや、池田。」高田先生はそこに座って、彼女を見ていた。

「先生、お願いします。」キリカは軽く頭を下げた。

担任はため息をついて、書類の束を取り出した。「本当にいいの?まだ——」

「はい。決めました。」

キリカの声には、迷いがなかった。担任はもう一度キリカを見つめて、うなずいた。ペンを手に取り、用紙に書き込んでいく。退学届。保護者署名の欄は空白だ。キリカはそこに、自分の名前を書いた。『池田桐香』。それが、彼女の選んだ道だった。

手続きが終わり、職員室を出ると、廊下は静かだった。授業中だから、生徒の姿はほとんどない。キリカは窓の外を見た。校門のところに、あの黒い服の男たちがまだ立っている。待っているのだ。彼女が出てくるのを。キリカは小さく舌打ちして、裏口へ向かった。校舎の裏手、体育館の陰から通用門に出る。そこなら、正面の警備が少ない。

通用門は鍵がかかっていた。キリカはフェンスをよじ登ろうとしたが、高すぎる。どうしようかと考えたその時——

「キリカさん。」

声がした。キリカが振り返ると、そこにはセイナが立っていた。

「セイナ……なんで?」

「カガミさんから聞きました。一人で行くって。」セイナは息を切らしている。「こっそり、ついてきちゃいました。」

「バカ。」キリカは思わず笑った。「危ないやろ。」

「キリカさんこそ。」セイナは通用門の鍵を見つめる。「ここ、多分裏のフェンスが低いとこあります。私、先に行ってみます。」

「待って——」

セイナはもう走り出していた。校舎の裏手、フェンスの一番低い場所。彼女はよじ登り、ひらりと飛び降りる。

「こっち!」

キリカも続いた。フェンスの金網が服に引っかかる。ブラウスの裾が少し破れた。でも構わない。二人は通用門から外に出て、裏手の小道を走った。誰も追ってこない。息を切らしながら、路地裏に飛び込む。

「はあ……はあ……」セイナが膝に手を当てる。「大丈夫ですか?」

「……あんた、ほんまに。」

キリカはセイナの頭をポンと叩いた。それから、小さく笑った。

「ありがとう。」

「いえ。」セイナも笑った。

その時、背後から足音が聞こえた。二人が振り返ると、さっきの男たちが立っていた。息も切らさずに。

「お嬢様、逃げ切ったと思いましたか。」

キリカの顔色が変わる。セイナが一歩前に出て、キリカをかばう。

「もうええやろ。」キリカが言う。「あんたら、何度も何度も——」

「それは若様の命令ですので。」男がポケットからスマホを取り出した。画面には、一人の老人が映っている。寒川家の当主——キリカの祖父だった。白髪交じりの髪をオールバックにし、スーツをびしっと着こなしている。目つきは鋭く、口元は厳しく引き結ばれている。映像越しでも、その圧倒的な存在感が伝わってくる。

「キリカ。」低い声がスピーカーから響く。

キリカの体が強張った。

「おじいちゃん……」

「よく聞け。」祖父は淡々と言う。「お前が家出したことは、既に大きな問題になっている。表沙汰にはしなかったが、グループ内では噂になっている。」

「……そうなんや。」

「しかし、私はお前にチャンスを与えようと思う。」祖父の声には、わずかに譲歩の色が混じっていた。「すぐに戻ってきなさい。そうすれば、これまでのことは不問に付す。」

「戻ったら、何が変わるん。」

「お前を守る。」祖父が言う。「お前の両親から、お前を守る。二度と暴力は振るわせない。約束する。」

キリカは一瞬、黙った。守る——その言葉は、子供の頃から欲しかったものだ。誰かが自分を守ってくれる。誰かが自分を救ってくれる。でも——

「……それで、また人形に戻るだけや。」キリカの声は低かったが、はっきりしていた。

「何?」

「おじいちゃんは、私を守ってくれるかもしれへん。でも、それはそれで、また違う檻に入れるだけや。」

「桐香——」

「私は、自分で決める。」キリカは胸を張った。「自分の足で立つ。誰かに守ってもらうんじゃなくて、自分で自分の人生を生きる。」

「それが、たとえ貧乏でもか。」

「貧乏でも構わへん。苦しくても構わへん。」キリカの目に、涙はなかった。「それで自分が納得できるなら、それでええねん。」

祖父はしばらく黙っていた。映像の向こうで、何かを考えているようだった。やがて、深いため息をついた。

「……そうか。」

「おじいちゃん——」

「これがお前の答えか。」

「はい。」

祖父はもう一度、長い沈黙の後、静かに言った。

「わかった。お前の意志は、尊重する。」

「おじいちゃん!」

「ただし——」祖父の声が急に冷たくなる。「この時から、あなたはもう寒川家のお嬢様ではありません。あなたは名簿から抹消され、血縁関係を認めない。」

「それもええ。どうせこんなに冷たいんやから。」

「明日、正式に発表する。寒川桐香は、寒川家から除名する。」

キリカは息を呑んだ。セイナも、その場で固まった。

「これで、お前は自由や。」祖父の声には、わずかな諦めと、それでもどこか誇りのようなものが混ざっていた。「望んだ通りの人生を歩め。ただし——後悔だけはするな。」

「おじいちゃん——」

映像が途切れた。スマホの画面には、通話終了の文字。男たちも、そのやり取りを聞いていた。無表情だったが、目の端が少しだけ揺れているように見えた。

「……これで、よかったんですか。」一人の男がぽつりと言った。

「知らん。」キリカは答えた。「でも、自分で決めたことや。」

男たちは何も言わずに、その場を去った。残されたのは、キリカとセイナだけ。路地裏の空気が、ひんやりと冷たい。

「……キリカさん。」セイナが小さな声で言う。

「なんや。」

「よく、決断しましたね。」

「当たり前や。」キリカは顔を上げた。空は青く、雲一つない。「あんな家、とっくに縁切りたかったし。」

「でも——」

「でも、なんや。」

「……おじいさま、本当はキリカさんのこと、大切に思ってたんじゃないかな。」

キリカは答えなかった。ただ、遠くを見つめたまま。その横顔は、少しだけ寂しそうだった。

「……行こか。」キリカが言う。

「はい。」

二人は歩き出した。コンビニに向かって。カガミが待っている場所へ。

路地を抜けると、大通りに出る。車の音が賑やかで、日常の空気が戻ってくる。キリカはポケットからスマホを取り出して、グループチャットを開いた。

『退学、済んだ。今から戻る。』

すぐにカガミから返信が来た。

『おつかれ!ゆっくりでええで!』

『お疲れ様。』

『無事でよかった。』

『帰ってきたら、また練習や。』

『待ってるで。』

キリカは画面を見つめて、小さく笑った。家族を失った。でも、家族を得た。

翌日。寒川グループの公式サイトに、たった一行の公告が掲載された。

『寒川桐香を、本日付で寒川家より除名する。』

それだけだった。理由は書かれていない。何の説明もない。ただ、冷たい事実だけがそこにあった。ニュースにはならなかった。寒川グループの広報力が、それを闇に葬ったのだ。しかし、一部の関係者の間では噂になった。あの寒川家の孫娘が、勘当されたと。

キリカはその公告を見なかった。カガミが見つけて、見せようか迷ったけど、結局やめた。

しかし、彼女には後悔も未練もないだろう。ノラのように。閉まっていくドアに激しくぶつかり、この世界に平手打ちをする。

「よし、じゃあ——」

「コーラ。」キリカはドラムスティックを掲げて、「新しい曲、作ろ。」

「こここそが君の本当の家だよ、キリカ。」

(From Dandy:

Kirika has lost her family, but she's found something she's never had before. A place to call home.Love you all.)

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