第61話 私たちの家
キリカがカガミの家に戻ったのは、午後を過ぎていた。玄関を開けると、リビングから賑やかな声が聞こえてくる。夕飯の支度をしているのか、キッチンからはいい匂いが漂っていた。
「おかえり!」カガミが飛び出してきた。エプロンを付けていて、手にはお玉を持っている。どうやら料理を手伝っていたらしい。「遅かったやん!どないしたん?」
「ちょっと寄り道しただけや。」キリカは靴を脱ぎながら、小さく笑った。「セイナとコンビニでお茶してた。」
「ええなあ!オレも混ぜてくれ!」
「あんたが来たら、うるさくなるからやめた。」
「ひど!」
二人でじゃれ合いながらリビングに入ると、ソファにはマサルとヨシコが座っていた。テーブルの上には温かいお茶が用意されていて、湯気が立ち上っている。
「キリカちゃん、おかえり。」ヨシコが優しく微笑む。「ご飯、食べた?」
「はい。セイナと軽く食べてきました。」
「そう。よかった。まだご飯できてへんから、お腹空いたら言ってな。」
「はい。」
マサルは新聞を置いて、キリカを見た。その目は真剣だった。普段は冗談ばかり言っている彼が、こんな顔をするのは珍しい。
「キリカちゃん。ちょっと話せるか。」
「……なんですか。」キリカは少し緊張してソファに座る。カガミも隣に座って、こっそりとキリカの手を握った。その手は温かかった。
「これからのことや。」マサルが言う。「退学して、これからどうするつもりか。今後のこと、ちゃんと考えとるんやろな。」
キリカは少し間を置いてから、はっきりとした声で答えた。
「バイトを探そうと思ってます。今までも少し貯金はあるし、FAの練習は続けながら、生活費くらいは自分で稼ぎたい。」
「一人暮らしする気か。」マサルが聞く。
「……いずれは。でも、今すぐじゃなくてもいい。まずは仕事を覚えて、少しでもお金を貯めないと。」
「いや。」マサルが首を振る。「それはまだ早い。」
「え?」キリカが顔を上げる。
「キリカちゃん。」ヨシコが口を開いた。その声は優しく、でもはっきりとしていた。「うちに、住み続けてくれへん?」
キリカは目を見開いた。何度か瞬きをして、その言葉の意味を噛みしめる。
「でも、もうこれ以上迷惑かけられへんし――」
「迷惑なんて思うたことないわ。」ヨシコの声は変わらず優しかった。「カガミが言うとったやろ。『キリカちゃんは家族や』って。家族が家族の家に住んで、どこが悪いの。」
「そうですよ、キリカちゃん!」カガミがキリカの腕をぎゅっと抱きしめる。力が入りすぎて、少し痛い。「オレ、キリカちゃんと一緒にいたいもん!毎日一緒に寝たい!」
「……あんた、離れ。」
「や!」
「カガミ、離しなさい。キリカちゃんが苦しがっとるやろ。」
「はーい。」カガミは渋々手を離したが、まだキリカの肩に頭を寄せている。
キリカは困ったように笑った。
「……しゃあないなあ。」小さな声で言う。でもその口元は、確かに上がっていた。
「それでええねん。」マサルがうなずく。「これからの生活費、気にしなくていいから。必要なものがあれば、遠慮なく言え。うちの家計はそんなに余裕ないけど、一人増えたくらいでどうにかなる。」
「でも、お父さん――」カガミが言いかける。
「お前は黙っとれ。お前の小遣いは別やからな。」
「はい……」
ヨシコが笑う。
「キリカちゃん、これからは家事も手伝ってほしいな。カガミは全然できひんから、助かるわ。掃除も洗濯も、目も当てられへん。」
「お母さん!そんなことないもん!」
「この前、洗濯機のスイッチ、押し忘れたろ。」
「あれは……たまたま!」
「三回連続で。」
「うっ……」
キリカはその様子を見て、思わず口元を緩めた。温かいものが胸の奥に広がっていく。これが、自分が探していたものだった。
「……ありがとうございます。迷惑かけますが、よろしくお願いします。」
「いいえ。こちらこそ。」ヨシコが優しく微笑む。「これからは、家族の一員やからな。」
その時、キリカのスマホが震えた。彼女は画面を見て、少しだけ表情を和らげる。
「誰から?」カガミが覗き込む。
「セイナや。」
グループチャットに、セイナがメッセージを送っていた。
『キリカさん、無事に帰れましたか?今日はお疲れ様でした。ゆっくり休んでくださいね。』
キリカはすぐに返した。
『うん。もう着いた。心配かけてごめん。セイナも早よ寝。』
すぐに返信が来た。
『はい。明日、MOCAで練習ですね。楽しみにしてます。遅刻しないようにします。』
『おう。遅刻したら、リハーサル十倍やで。』
『それは怖いです……頑張ります。』
カガミが「おお、セイナちゃん、元気やな!」と叫ぶ。
「当たり前や。」
「でも、セイナちゃんも大変やんな。親との約束、守らなあかんし。勉強とバンドの両立、めっちゃ大変そう。」
「そうやな。」キリカは窓の外を見た。夕日が沈みかけていて、オレンジ色の光が部屋に差し込んでいる。「明日から、また頑張らなあかんな。」
「おう!」カガミが力強くうなずく。「オレももっとギター練習するわ!キリカちゃんのドラムに負けられへん!」
「あんた、口だけは一人前やな。」
「うるさい!」
二人でまた言い合いを始める。マサルとヨシコはそれを見て、温かい目で見守っていた。
一方その頃、大阪の繁華街。
ハナルは人波に揉まれながら、待ち合わせ場所へ急いでいた。夕方の商店街は、仕事帰りの人や買い物客でごった返している。店の灯りが次々と点き始め、街は少しずつ夜の表情を見せ始めていた。
「す、すみません!遅れました!」
息を切らして到着すると、セイナは既にそこに立っていた。白いブラウスにベージュのカーディガン。いつもの百合泉の制服姿とは違い、今日はとてもリラックスした雰囲気だった。髪も後ろで一つに結んでいて、少しだけ大人びて見える。
「大丈夫です。私も今来たところです。」セイナが優しく微笑む。「急がなくてよかったのに。」
「で、でも、待たせるのは嫌で……」
「ハナルさんは、いつもそうやって気を遣いますね。」
「そ、そんなことないです。」
二人は並んで歩き出す。行き先は決めていなかったが、自然と足は繁華街の奥へ向かっていた。
「ど、どこ行きますか?」ハナルが聞く。
「そうですね……あっちの方、歩いてみませんか?」セイナが指さしたのは、小さなスーパーマーケットだった。いつもは通らないような、路地裏にある店だった。
「スーパー?」
「はい。ちょっと、買いたいものがあって。」
店内は思ったより広く、食品から日用品まで何でも揃っていた。野菜売り場、精肉コーナー、そして——お酒のコーナー。セイナは迷わず、そちらへ向かった。
「セ、セイナさん、お酒を?」
「はい。最近、ちょっと疲れてたので……」セイナは少し照れくさそうに笑った。「果酒なら、甘くて飲みやすいかなと思って。あんまりお酒は強くないんですけど、たまにはいいかなって。」
セイナは棚から桃の果酒を取り出し、次に林檎の、そして柚子のを手に取る。どれもカラフルなラベルで、見ているだけで楽しくなる。
「ど、どれがいいですかね?」
「セ、セイナちゃん、お酒……」ハナルが答える。結局のところ、ハナルの酒量は普通の人には敵わない。
「大丈夫ですよ。これ、アルコール度数低いですから。ジュース感覚で飲めますよ。」セイナは笑って言った。彼女も試してみることにした。
セイナは最終的に、桃と柚子の二本をカゴに入れた。桃は甘そうで、柚子はさっぱりしていそう。どちらも楽しみだった。
レジを済ませて、二人は近くの公園へ向かった。この時間の公園は、子供たちの姿はなく、静かだった。木々の葉が風に揺れて、さらさらと音を立てている。
ベンチに座って、缶を開ける。プシュッという軽い音が、夕暮れの空気に溶ける。セイナは恐る恐る一口含んで、ほっとしたように息をついた。
「あ、美味しい……甘くて、飲みやすいです。」
「で、ですよね。」
ハナルも一口含んだ。口の中に桃の甘い香りが広がる。でも、彼女にとっては、これはただの果汁に近い。正直、物足りなかった。家で飲む父ちゃんの激辛カレーに合わせるビールの方が、ずっと好みだ。それに、前に飲んだ時は一本だけじゃ全然足りなかった。でも、セイナが楽しそうに飲んでいるのを見ると、それだけで十分だった。
「か、乾杯。」
「乾杯。」
二人は缶を軽くぶつけ合った。チンという澄んだ音が響く。
「セ、セイナさん、疲れてるんですか。」
「……ちょっとね。」セイナは缶を見つめる。桃色の液体が、夕日を反射してキラキラと輝いていた。「親との約束もそうやし、キリカさんのことも心配やし。それに、自分の練習ももっと頑張らなあかんし。」
「キリカさん、今日、すごく頑張ってましたね。」
「うん。私、あんなキリカさん、初めて見た。」セイナは遠くを見るような目をした。「自分の足で立つって……あんなに強く言える人、なかなかいないと思う。あの目、あの声——本当に芯が通ってた。」
「セ、セイナさんも、強くなりましたよ。」
「え?」
「前は、自分から何かを言うの、あんまり得意じゃなかったのに、今はちゃんと言いたいこと、言えてる。親に対しても、バンドのみんなに対しても。」
セイナは少し驚いた顔をして、それから小さく笑った。
「……そうかな。自分では、まだまだ足りない気もするけど。」
「足りなくても、少しずつ前に進んでる。それが大事なんじゃないかな。」
「ハナルさん、時々すごく大人っぽいこと言いますね。」
「そ、そんなことないです!」
ハナルももう一口飲む。やっぱり物足りない。でも、セイナとこうして並んで飲んでいるこの時間が、とても大切に思えた。
「ハナルさんは、これからどうしたいですか。」
「え?」
「バンドのことです。ハナルさんは、どうなりたいんですか。どんなステージに立ちたいとか、どんな歌を届けたいとか。」
ハナルは少し考えてから答えた。
「……わ、私は、もっと歌を届けたい。誰かの心に響く歌を。あの時、カガミさんに誘われてなかったら、今の私はいない。バンドもなかった。だから、今度は私が誰かに届けたい。」
「そうですね。」
「で、でも、それだけじゃなくて――」ハナルは続ける。「みんなと一緒に、ずっと音楽を続けたい。それが、一番の願いです。たとえ売れなくても、小さなライブハウスでも、みんなで音を合わせられるだけで、私は幸せ。」
セイナはそれを聞いて、優しく微笑んだ。
「そういうところが、ハナルさんのいいところですね。」
「え?」
「私も、同じです。みんなと一緒に、音楽をやりたい。技術が下手でも、上手くなれなくても、それでも一緒にいたい。」
二人はしばらく無言で缶を傾けた。風が木の葉を揺らす。夕日が、二人の影を長く伸ばしていた。空の色が、オレンジから薄紫へと変わっていく。
「……セイナさん。」
「はい?」
「あ、明日、頑張りましょうね。新曲の練習、もっと詰めたいし。」
「うん。私も、キリカさんの新しいドラムに合わせて、リズムギターの練習し直します。」
「一緒に頑張ろう。」
「はい。」
セイナは空を見上げた。星が一つ、また一つと輝き始めている。こんなに静かな夜は、久しぶりだった。
「今日は、誘ってくれてありがとう。」セイナが言う。「ハナルさんとこうして話せて、なんか…気持ちが軽くなった。」
「い、いいえ。こちらこそ。私も、セイナさんと話せて、元気出ました。」
缶はもう空だった。二人は立ち上がって、空き缶を近くのゴミ箱に捨てる。
「帰り道、一緒に歩きませんか。駅まで。」
「は、はい。」
街灯が点き始めた道を、二人は並んで歩いていく。明日の練習のこと、次の曲のこと、そして――これからのこと。
「セイナさん。」
「ん?」
「……キリカさん、今までずっと、一人で戦ってたんですね。あんな若さで、家族と向き合って、自分の道を選んで。」
「うん。だからこそ、私たちがいるんやと思う。一人で戦わなくていいって、教えてあげたい。」
「そ、そうですね。私たちが、キリカさんの新しい家族ですから。」
セイナはハナルの顔を見て、少しだけ笑った。
「ハナルさんは、本当に優しいですね。誰かを思いやる気持ちが、すごく伝わってくる。」
「そ、そんなことないです。カガミさんの方がよっぽど――」
「カガミさんはカガミさんで優しいけど、ハナルさんはハナルさんの優しさがある。」セイナは穏やかに言う。「無理に誰かと比べなくていいんです。」
「あ、あの、やめてください……照れます……」
「ふふ。」
二人の笑い声が、夕暮れの街に溶けていく。
その夜、キリカは布団の中でスマホを見ていた。カガミは隣で既にぐっすり。小さないびきをかいている。時々「キリカちゃん……」と呟いて、抱き枕をぎゅっと抱きしめる。その姿がおかしくて、キリカは思わず笑った。
グループチャットには、ハナルが送った写真があった。公園のベンチ。二本の果酒の缶。夕焼け。それに、セイナの手元が少しだけ写っている。
『セ、セイナさんと、ちょっとだけ飲みました。』
カガミがすぐに返した。どうやらまだ起きていたらしい。
『ずるい!オレも混ぜてくれ!』
『また今度。』
『絶対やで!約束やからな!』
『はいはい。』
(From Dandy:
Everyone has their own struggles. But they also have each other. )




