第58話 苦痛を選ぶか自己を選ぶか
其れは、文化祭が終わって5日経った金曜日の夜だった。
セイナは自分の部屋のドアの前で、立ち尽くしていた。廊下の灯りが、彼女の影を床に長く伸ばしている。肩にはギターケース。中には、あの中古のギター。初めて楽器店で手にした時から、ずっと一緒だった。学校に置いたままだと、場所を取るし、バレる可能性もある。何よりも——自分が今、何をしているのか、親に伝えたかった。
「……お父さん、お母さん。」
声が出なかった。喉の奥がカラカラに乾いている。もう三十分も前から、ここに立っている。なのに、なかなかドアを叩けない。
リビングからは、テレビの音が聞こえる。ニュース番組の、淡々としたアナウンサーの声。時々、母が「あら」とか「そうなの」とか、相槌を打つ。
セイナは深く息を吸った。本当はずっと前から決めていた。もっと早く言うべきだった。でも、あの日の文化祭——FAがステージに立って、自分のギターがPAから大きく響いた時、彼女は思った。「これが私のやりたいことだ」と。
それが間違っているとは思わない。でも、親はどう思うだろう。
「……意を決して。」
セイナは小さく呟いて、ドアをノックした。
トントン。
「はいー。」母の声がする。
セイナはドアノブを回し、ゆっくりと開けた。リビングの灯りが眩しい。父はソファに座って新聞を読み、母はその隣で編み物をしている。イブニングニュースが、画面の中できらきらと輝いていた。
「あら、晴奈。どうしたの?」母が顔を上げる。
「……ちょっと、話があるんです。」
「話?」
「はい。」
セイナはリビングの中へ一歩踏み出した。ギターケースが、体の後ろでぶつかりそうになる。彼女はそれを前に出して、両手で抱えるようにした。
「それ、何?」父が新聞から顔を上げる。その目はギターケースに向けられていた。
「ギター……です。」
「ギター?」
「私、バンドをやってるんです。文化祭でも、演奏したんです。」
リビングが一瞬で静まり返った。テレビの音だけが、間抜けに響いている。母は編み物の針を止め、父は新聞を握りしめた。
「……何て言った?」
父の声が、低くなった。それはセイナが一番恐れていた声だった。怒りを抑えている時の、あの低く冷たい声。
「バンドです。音楽が好きで——」
「ふざけるな!」
父が新聞をテーブルに叩きつけた。バンッという大きな音が、部屋に響く。母の肩がびくっと震えた。
「お前、百合泉に行ってるんだぞ!何がバンドだ!何が音楽だ!」
「お父さん——」
「黙れ!」
父が立ち上がった。その体は怒りで震えている。
「お前は東大に行くんだ!それ以外の道はない!そんな遊びに時間を潰す余裕がお前にあると思ってるのか!」
「遊びじゃありません!」セイナも声を張り上げた。自分でも驚くほど大きな声が出た。心臓がバクバクしている。でも、ここで引いたら終わりだった。
「私は真剣にやってるんです。バンドの練習も、ギターの練習も——」
「真剣?笑わせるな!」父が一歩前に出る。「バンドなんて、所詮若気の至りだ。大人になれば、そんなものは恥ずかしくて話せなくなる。」
「私は——」
「お前のために言ってるんだ!」
「私のために?」セイナの声が震える。「お父さんは、私が何をしたいか、一度でも聞いてくれたことありますか?」
「聞く必要ない。親の言うことは正しいんだ。お前を不幸にさせたくないから、言ってるんだ。」
「それが、不幸って——」
「もういい!」母が口を挟んだ。その目は、セイナをまっすぐに見つめている。
「セイナ、そのギター、いつから持ってたの。」
「……つい最近です。」
「最近?」母の声が一段と鋭くなる。「どうしてこんなものを買ったの?……!」
「ずっと言いたかった。でも、言えなかった。お父さんもお母さんも、絶対に許さないと思って——」
「当然だ!」父が叫んだ。「そんなもの、今すぐ捨てろ!」
「嫌です!」
セイナはギターケースを抱きしめた。胸の前でぎゅっと。強く。離さない。
「捨てません。これは私の友達です。私の……居場所です。」
「居場所だと?」父が鼻で笑う。「お前の居場所はここだ。家だ。学校だ。バンドなんて、ただの現実逃避だ。」
「逃げてなんかない!」
「逃げてるよ。」母が静かに言った。「勉強がきついから、逃げてるんだ。現実から目を背けて、楽な方へ行ってる。そんなの、誰にでもできる。」
「そんなこと——」
「セイナ。」父が一歩詰める。「ここでギターを置け。そして、二度とバンドなんてやらないと約束しろ。そうしたら、今回は見逃してやる。」
「……」セイナはギターケースを抱えたまま、微動だにしなかった。
「セイナ!」
「嫌です。」
その言葉を最後に、リビングの空気が一気に張り詰めた。父の顔が赤くなり、血管が浮き出ている。母は立ち上がり、セイナの前に立った。
「そのギター、貸しなさい。」
「いやです。」
「貸しなさい!」
母がセイナの腕を掴んだ。爪が食い込んで、少し痛い。セイナは体をよじる。
「離してください!」
「離さない!そんなもの、ここで叩き壊すから!」
母はギターケースを奪おうと、引っ張った。ケースのストラップがセイナの肩を締め付ける。痛い。でも、手は離せない。
「これは私のものです!勝手に——」
「ふざけるな!」
父が横からセイナの左手首を掴んだ。その大きな手で、彼女の細い手首は簡単にねじ曲げられる。
「いたっ……」
「離せ!」
「嫌です!」
三つの声がリビングに響き渡る。机の上のコップが、倒れそうになって揺れた。
父と母とセイナの力がぶつかり合う。ギターケースが悲鳴を上げる。ストラップが千切れそうだ。
その時、父がセイナの手を離した。代わりに、彼が手を伸ばしたのは——ソファの隅に置いてあったセイナのスマホだった。
「これも、没収だ。」
「やめて!」
セイナはギターケースを抱えたまま、父の手に飛びついた。スマホを奪い返そうと、必死に手を伸ばす。
「返して!」
「ふざけるな!」
父の手が、スマホを掲げた。床に叩きつけようとしている。「こんなもの、いらないだろう!」
「やめてください!それ、私の——」
「うるさい!」
父の手が振り下ろされた。セイナの目が一瞬閉じる。
——パシッ。
音がした。でも、それはスマホが床に砕ける音じゃなかった。
セイナが目を開けると、自分の手が父の手首を掴んでいた。スマホは、父の指の間に挟まったまま、まだ無事だった。
「お前……」
「返してください。」セイナの声は、震えていなかった。「これは、私の大事なものです。ギターも、スマホも、バンドも——全部、私の大事なものなんです!」
父は無言でセイナを見つめた。その目は、怒りと、少しの驚きが混ざっている。
母も、動きを止めた。セイナからギターケースを奪おうとしていた手を、そのままに。
沈黙が、リビングを包んだ。テレビの音だけが、間抜けに流れている。国際ニュースだ。どこかの国で、何かが起こっているらしい。でも、そんなことは、もうどうでもよかった。
「……もういい。」
父が、セイナの手を振りほどいた。スマホをソファに放り投げる。セイナはすぐにそれを拾い上げて、ポケットにしまった。
「好きにしろ。」
「お父さん——」
「俺も、お母さんも、もう知らん。」
父はそう言って、リビングを出て行った。バタンと大きな音がして、廊下に消えた。
母は、立ち尽くしたまま、何も言えなかった。しばらくして、絞り出すように言った。
「……あなた、自分のやってることが、わかってるの?」
「わかってます。」
「わかってないから、こんなことになるのよ。」
母の声は、もう怒りではなかった。諦めと、悲しみと、少しの怒りが混ざった、複雑な色をしていた。
「自分の人生を、自分で壊してるんだよ。」
「壊してないです。」
「壊してる。」
母はそれだけ言って、自分の部屋へ向かった。ドアが閉まる音が、リビングに響く。
セイナはその場に立ち尽くしたままだった。ギターケースを抱きしめて。離さないで。
「……大丈夫。」
自分に言い聞かせた。声が震えていた。でも、それだけが彼女の支えだった。
しばらくして、彼女は自分の部屋に戻った。重い足取りで、ドアを閉めて、鍵をかける。普段はかけていいルールはない。でも、今日は特別だった。
ギターケースをベッドの上に置く。ファスナーを開けて、中からギターを取り出す。ボディには、小さな傷がいくつもある。ネックには、自分の手の脂が染み込んでいる。弦は少し錆びかけているけど、それでも彼女の指を待っている。
セイナはギターを抱きしめた。強く。強く。顔を埋めて、震える息を漏らす。
「……」
声は出なかった。涙も、まだだった。ただ、胸の中が、ぎゅっと締め付けられるような感覚だけがあった。
自分は、間違っていない。そう思いたい。でも、親をあんな風に怒らせてしまった。悲しませてしまった。
「ごめんなさい……」
小さな声が、自然と漏れた。それは、ギターに向けられた言葉だった。それとも、自分自身か。わからなかった。
その時、ポケットのスマホが震えた。セイナは涙を拭いて、画面を見た。
グループトークの通知だった。カガミからだった。
『セイナちゃん、話できた?大丈夫?』
『セ、セイナさんもうまくいきましたか?』
『私も気になります。』
『大丈夫なんか?返事して。』
『……みんな、心配してますよ。』
セイナは画面を見つめた。文字が、にじんで見える。涙で濡れた指で、キーボードを叩いた。
『……うん。なんとか。』
すぐに返信が来た。
『よかった!おめでとう!これでセイナちゃんも堂々とギター弾けるな!』
『本当によかったです。』
『……頑張ったんやな。』
『お疲れ様。』
『ありがとう。』
『ゆっくり休んで。また明日。』
セイナは、それだけを見つめていた。何も返せなかった。でも、それでよかった。
涙が、ぼたぼたと落ちた。ギターのボディに。弦に。ネックに。指先が濡れて、滑りそうになる。それでも、彼女はギターを離さなかった。
「……私、間違ってないよね?」
ギターに問いかける。ギターは答えない。でも、その重みが、セイナの胸に伝わってくる。
大丈夫。大丈夫だよ。きっと。
セイナは、布団に入った。ギターを一緒に、布団の中へ。冷たいボディが、少しずつ温かくなっていく。
窓の外では、月が輝いていた。星は見えない。でも、彼女の心の中には、小さな光があった。カガミの一言。キリカの一言。セイナの、アコの、ヒデミの、そして——まだ本心を見せていないけれど、いつも気にかけてくれている晴奈の、みんなの声。
「……ありがとう。」
小さく呟いて、セイナは目を閉じた。
明日、またみんなに会える。それだけで、少しだけ前を向ける気がした。
セイナはクマを抱きしめて、ぐっすりと眠りについた。
(From Dandy:
Sorry. I've been sick lately, so updates might be a bit slow. Hope you guys understand.)




