第57話 ロゴ
金曜日。午後。
三角公園の芝生広場は、少しだけ日差しが弱まっていた。木々の影が長く伸びて、風が葉を揺らす。カガミが大きな声で叫んだ。
「よし、到着!今日は練習なしの、完全オフや!」
「めっちゃ叫ばんでええ。」キリカがだるそうに言うが、口元は少し緩んでいる。
ハナルはレジャーシートを広げて、その上にコンビニの袋を置いた。「お、お菓子、買ってきました。あと、ジュースも。」
「ナイス、ハナルちゃん!」カガミが親指を立てる。
セイナは持ってきた本を開いて、日陰の場所に座った。アコはヒデミの隣にちょこんと座り、二人でスマホを見ている。どうやら新しいキーボードのカタログを眺めているらしい。
「晴奈さんは、何か飲みますか?」セイナが聞く。
「あ、ありがとう。お茶をもらえる?」晴奈が優しく微笑んだ。
「はい。」
五人がそれぞれ寛ぎ始めたその時、公園の入り口の方から人影が見えた。スーツ姿の女性が一人、ゆっくりとこちらに歩いてくる。相変わらずのピシッとした姿。腕には例のノート。浦和会長だった。
「あれ?浦和会長!」カガミが立ち上がる。
「こんにちは。」浦和が軽く会釈する。「またここで会うとはね。」
「会長こそ、どうしてここに?」キリカが首をかしげる。
「たまたま通りかかっただけよ。」浦和はそう言いながらも、六人のところまで歩いてきて、自然にレジャーシートの端に座った。「邪魔してもいいかしら?」
「いいですよ、もちろん!」カガミが即答する。他のメンバーも驚きつつもうなずく。
浦和は少し間を置いて、口を開いた。
「文化祭の演奏、観たわ。」
六人の空気が一瞬で変わった。カガミがごくりと息を飲む。
「あの……どうでした?」恐る恐る聞く。
浦和はしばらく沈黙した。そして、ノートを開いて、何かを書き込んだ。
「悪くなかったわ。むしろ、良かった。」
「え?」カガミが目を丸くする。
「特にボーカルの声。しっかり届いてた。それに、ギターとキーボードのバランスも良かった。」浦和は淡々と言う。「あと、あの韓国語の曲。歌詞まではわからないけど、気持ちは伝わってきた。」
アコの肩がびくっと震えた。ヒデミがそっと彼女の手を握る。
「ありがとうございます……」ハナルがどもりながら頭を下げる。
「礼を言われる筋合いはないわ。事実を言っただけ。」浦和はノートを閉じた。「それで――」
彼女はバッグから、一枚の木の板を取り出した。楠の木らしく、淡い木目が美しい。何も書かれていないが、手触りは滑らかで、重みがありそうだった。
「これ、あげる。」
「え?なんですか?」カガミが受け取る。
「君たちの教室の看板よ。『フォルティシモ・アリーナ』って彫ればいい。」
「ええっ!」カガミが飛び上がる。「いいんですか!?」
「名前がなければ、ただの空き教室だもの。もったいないから。」浦和は立ち上がった。「さあ、行くわよ。」
「どこに?」キリカが聞く。
「松園に決まってるでしょ。彫り方、教えてあげる。」
六人はあっという間に荷物を片付け、浦和の後をついていった。三角公園から松園女子高等学校までは、歩いて十分ほど。校門をくぐると、週末の校舎は静かだった。
「こっち。」浦和が先導して、三階の教室に向かう。あの、FAの練習室だ。
ドアを開けると、あの古いベースがスタンドに立てかけられ、六人のサインが壁のポスターと並んでいる。浦和は教室の中央に立ち、周りを見回した。
「なかなか使えてるみたいね。」
「はい!毎週ここで練習してます!」カガミが元気に答える。
浦和はうなずいて、カバンから道具を取り出した。小さなノミと、木槌。それから、鉛筆と紙。
「まず、デザインを考える。」浦和は紙に「FORTISSIMO ARENA」と書き、その周りに飾りを描き始める。「希望があれば言って。」
「あ、じゃあ、音符のマークを入れてほしいです!」セイナが手を挙げる。
「オレのギターの絵も!」カガミも続く。
「キーボードも。」アコが小さな声で言う。
「ドラムも。」キリカ。
「ベースも。」ヒデミ。
「……マイクも。」ハナル。
浦和は一つ一つうなずきながら、デザインに書き足していく。時間はかからなかった。彼女の手は慣れている。
「よし、これでいいかしら。」
出来上がったデザインを見て、六人は息を飲んだ。音符、ギター、キーボード、ドラム、ベース、マイク――六つの象徴が、バンド名を囲むように配置されている。シンプルだけど、力強かった。
「すごい……」ハナルが呟く。
「じゃあ、彫るわよ。」浦和は木の板を机の上に置き、鉛筆でデザインを写し始める。「まずは下書き。これが一番大事。」
六人は息を殺して、その手元を見つめる。浦和の手は震えず、線は正確だった。まるで機械みたいに。
「次、ノミで彫る。」浦和は小さなノミを手に取り、木槌で軽く叩く。「線に沿って、ゆっくり。力加減が大事。」
カン、カン、カン――規則正しい音が教室に響く。木屑が少しずつ落ちていく。
「交代でやってみる?」浦和が六人を見る。
「やる!」カガミが手を挙げる。ノミを受け取って、恐る恐る木の板に当てる。木槌を握って――
カン!
「あっ!線から外れた!」
「だから力加減が大事って言ったでしょ。」浦和が呆れたように言う。「もう一度。」
カガミは深呼吸して、もう一度。今度は慎重に、ゆっくり。カン、カン。
「……できた?」
「うん。次はこっちの線。」浦和が指さす。
カガミは続けて彫る。今度はさっきよりマシだったけど、やっぱり所々線が歪んでいる。
「次、誰か。」浦和がノミを差し出す。
「わ、私、やってみます。」ハナルがおずおずと手を挙げる。
「いいよ。」
ハナルはノミを受け取って、深呼吸。カン――小さな音がした。線に沿って、少しずつ。彼女の手は震えていたけど、目線はしっかりと板を見つめている。
「……悪くない。」浦和が言う。
ハナルが顔を上げる。「ほ、本当ですか?」
「まだまだ練習が必要だけど。」
「は、はい!」
次々と交代して、六人が順番に彫っていく。キリカは正確に、ヒデミはだるそうだけど丁寧に、アコは真剣に、セイナは慎重に。晴奈は少し迷ったけど、やってみると意外と上手かった。
一時間ほど経って、ようやく看板が完成した。文字は少し歪だけど、そこが手作りらしくて温かい。浦和は最後にニスを塗って、乾かす。
「よし、乾いたら壁に掛けなさい。」
「ありがとうございます!」カガミが深々と頭を下げる。他の五人也同じ。
「礼はいらない。これからも頑張りなさい。」浦和はそう言って、道具を片付け始めた。
その頃、心斎橋のMOCAの一階。カガミに紹介された真由美は、約束の時間より十分早く到着していた。彼女はベンチに座って、バイオリンのケースを膝の上に抱えている。中からは、チューニングの音がかすかに聞こえる。
「遅れないようにしなくちゃ……」
一人で呟いていると、入り口から四人の女の子が入ってきた。プラチナブロンドの美沙を先頭に、茉莉奈、野美、花火が続く。
「あ、いたいた!白石さんだよね?」美沙が笑顔で手を振る。
真由美は慌てて立ち上がった。顔が一気に赤くなる。
「は、はい。白石真由美です。よ、よろしくお願いします!」深々と頭を下げる。その勢いで、バイオリンのケースがガタンと音を立てた。
「わあ、緊張してるね!」茉莉奈が笑う。「リラックスして~うち、茉莉奈。よろしくな!」
「黒澤茉莉奈さんですか……よろしくお願いします。」真由美はもう一度頭を下げる。
「小沢野美です。よろしく。」野美が静かに頭を下げる。
「稲田花火です。よろしく。」花火も軽く会釈する。
「私は美沙。エルフィンのボーカルやってる。よろしくね!」
真由美はうなずきながらも、目線が泳いでいる。どう返せばいいかわからない。手が震えている。
「あの、どうかしました?顔、すごく赤いですよ。」美沙が心配そうに覗き込む。
「だ、大丈夫です!ちょっと、緊張してるだけで……」
「もっとリラックスして~」茉莉奈が真由美の肩をポンと叩く。「これから一緒にバンドやるんやろ?友達やん!」
「友達……」真由美がその言葉を繰り返す。目が少し潤んだ。
「そうやで!」茉莉奈が笑う。「これからよろしくな、真由美!」
「は、はい!よろしくお願いします!」真由美はもう一度深々と頭を下げた。今度はさっきより、少しだけラクそうだった。
「で、カガミさんから聞いたけど、バイオリンできるんやろ?」茉莉奈が真由美のケースを指さす。
「はい……少しだけ。」
「聲かせて聲かせて!」美沙が目を輝かせる。
「え、今ここで?」
「いいやん、いいやん!」
真由美はためらいながらも、ケースを開けてバイオリンを取り出した。弓に松脂を塗って、深呼吸。
「何か、聴いてほしい曲とかありますか?」
「じゃあ、最近練習してる曲で!」美沙が言う。
真由美はうなずいて、バイオリンを肩に乗せた。弓を弦に当てる。最初の音が、響いた。澄んでいて、優しくて――さっきまで緊張で真っ赤だった彼女の顔が、演奏を始めた瞬間、別の人のように落ち着いていた。
四人は息を飲んで聴き入る。一曲終わり、拍手が起こる。
「すごい!」美沙が感動している。
「めっちゃ綺麗!」茉莉奈も。
「エルフィンに、こんなに素敵な音が加わるなんて……」野美が呟く。
花火も小さくうなずいた。「白石さん、これからよろしくね。」
真由美は照れくさそうにうつむいた。でも、その口元はほんの少しだけ上がっていた。
松園の教室に戻ると、浦和は六人と一緒に看板を壁に掛けていた。高さを調整して、水平を確かめる。
「よし、これでいいわ。」
カガミが拍手する。「やった!これでFAの教室がもっとFAらしくなった!」
「しかし、どこか欠けている気がしない?」
「え?」六人が首をかしげる。
「あなたたちは毎日ここで練習しているのに、自分たちだけのロゴがないの?」
「たしかに……」カガミがうつむく。
「そのロゴはブランドだけのものじゃないよ。バンドのシンボルだから。私は相談しないと決められない。」
「そうだね。」浦和はうなずいた。「でも、急がなくていいよ。あなたたちが自分たちで決めればいい。」
その時、キリカが口を開いた。
「浦和会長。一つ聞いてもいいですか。」
「なに。」
「唯さんのこと、知ってるんですよね。」
カガミは何かに気づいたようだった。「ああ、高校2年生のあの子や!」
浦和の手が、一瞬止まった。
「唯?ああ、Ragging Bullのギターの子か。」
「はい。」
「どうしたの。」
キリカは少し迷ってから、言った。「あの子、ずっとユキのために頑張ってる。謝って、頭下げて、自分を犠牲にして。でもユキは、あの子のことを――友達とも思ってない。」。
予想外だったのは、浦和が全く驚かず、むしろこう言った:
「知ってるよ。」
「知ってるの?」
「ライブの時、見てればわかるわ。」浦和は冷たく言う。「あの子はいつもユキの後ろにいる。でもユキは一度も振り返らない。それ以上に、あの子のギターの音を聴こうとしない。技術は認めてるけど、それだけ。」
「じゃあ、なぜ唯さんは――」
「自分がそうしたいからよ。」浦和の声は相変わらず冷たい。「唯は自分を犠牲にすることでしか、自分の存在を確認できないんじゃないかしら。」
「それって――」
「熱いものを冷たいものに貼り付けるようなものよ。無駄な努力。」浦和はノートを開いて、何かを書き込んだ。「あんな子、初めて見た。唯がこんなに執着するなんて。意味がわからない。こんなに頑張っても、相手は振り向かないとわかっているのに。本当に疑問だ。」
「浦和会長……」カガミが言いかける。
「あの子、もっと自分のことを考えたほうがいい。」浦和はノートを閉じた。「誰かのために生きるのは、もう十分でしょう。ユキが彼女の弱点を握っているわけじゃない。」
教室が静まり返った。誰も何も言えなかった。
「さて、そろそろ行くわ。」浦和は立ち上がった。「看板、大事に使いなさい。」
「はい。ありがとうございました。」
(From Dandy:
I'm updating later today because I'm not feeling so good. Hope you all understand. Love you guys.)




