第56話 Sacrifice
水曜日。午後。
カガミの家のリビングは、いつもより少し広く感じられた。今日はFAの練習がオフで、ヒデミとアコは和歌山に戻り、セイナは家で勉強、キリカはカガミの部屋でドラムの練習をしていた。ハナルはカガミのベッドの上で、次の曲の歌詞を考えている。そして、セイナの代わりに、晴奈が今日はカガミの家に遊びに来ていた。彼女はソファの隅で本を読んでいるが、時々顔を上げて皆の会話に耳を傾けている。
「あ、そういえば。」カガミがキッチンから顔を出す。「今日、ヒデミちゃんの妹が来るんや。」
「え?」ハナルが顔を上げる。「ひ、ヒデミさんに、妹さんがいたんですか?」
「うん。真由美いうねん。今、一年生で、叔父さんの家に住んでるから、なかなか会えへんけど、今日はこっちに来るって。」カガミはスマホを見ながら言う。「前に一回ウチに来たことあって、それから年賀状交換しとるねん。ヒデミちゃんが和歌山におるから、直接会えへんけど、せっかくやからウチに寄るって。」
「なるほど。」キリカがドラムスティックをくるくる回しながら言った。「ヒデミの妹か。どうせあいつみたいにだらだらしてるんやろ。」
「それがちゃうねん。」カガミは照れくさそうに頭をかいた。「真由美は、ヒデミちゃんと違って、めっちゃおとなしいねん。ハナルちゃんみたいな感じ。」
以前、ヒデミがカガミの家に遊びに来た時、珍しく妹の真由美も連れてきていた。カガミの家の修理工場を見学した時、真由美は隅に置いてあった古いラジオに興味を持ち、カガミが「それ、直してみる?」と話しかけたのがきっかけだった。それ以来、年賀状を交換したり、たまに連絡を取る仲になった。
「わ、私みたい?」ハナルがどもりながら言う。
「そうそう。どもったりはせえへんけど、すぐ緊張しちゃうタイプ。」
「へえ。」キリカが興味なさそうに返す。
晴奈は本から顔を上げて、「ヒデミさんの妹さんですか。会うのが楽しみですね。」と静かに言った。
しばらくして、玄関のチャイムが鳴った。
「あ、来た!」カガミが走っていく。ドアを開けると、そこにはカガミより少し背の低い、中学生くらいの女の子が立っていた。黒い長い髪を後ろで一つにまとめ、シンプルな白いブラウスにベージュのカーディガン、ジーンズ。顔立ちはヒデミと少し似ているけど、雰囲気が全然違う。目が大きくて、少し緊張したようにカガミを見上げている。
「カガミさん、お久しぶりです。」真由美の声は小さくて、柔らかかった。
「真由美!久しぶりやな!」カガミが真由美を抱きしめようとするが、真由美は少し戸惑ったように、小さくなっている。
「あの、お姉ちゃんは……」
「ああ、ヒデミちゃんは和歌山におるねん。今日は戻れへんって。でも、せっかくやから、うちで遊んでいき。」カガミがにこにこしながら招き入れる。「今日は友達もおるで。紹介するわ。」
リビングに入ると、ハナルがおずおずと立ち上がった。
「こ、こんにちは。園部花露です。」
「白石真由美です。よろしくお願いします。」真由美が深々と頭を下げる。その様子は、ハナルが初めてカガミに会った時とそっくりだった。
キリカはソファに寄りかかったまま、軽く手を上げた。「キリカ。よろしく。」
「はい。よろしくお願いします。」真由美がまた頭を下げる。
晴奈も立ち上がり、優しく微笑んだ。「岸和田晴奈です。よろしくね。」
「岸和田さん……よろしくお願いします。」真由美は少し緊張しながらも、丁寧にお辞儀をした。
カガミが真由美の背中をポンと叩いた。「リラックスしてや。みんな良いやつやから。」
「うん……」
真由美はハナルの隣に座った。ハナルは少しだけ横を見て、小さな声で言った。「わ、私も、初めてカガミさんに会った時、こんな感じでした。」
「え?そうなんですか?」真由美が少しだけ興味を示す。
「は、はい。すごく緊張してて、何を言っていいかわからなかった。」
「私も、今、すごく緊張してます。」
「だ、大丈夫です。カガミさんは、ほ、ほんとにいい人なんで。」
「……はい。」
その時、真由美の肩から斜めにかかったケースが目に入った。ハナルがそれを指さす。
「そ、それは?」
「あ、これ。」真由美がケースを大事そうに抱えた。「バイオリンです。叔父さんの家に置いておくのがちょっと怖くて、持ってきちゃいました。」
「バイオリン!」カガミが目を輝かせる。「聞かせて聞かせて!」
「えっと……」真由美が困ったようにカガミを見る。
「いいやろ?一回だけ!」
「……じゃあ、ちょっとだけ。」
真由美はケースを開けて、中からバイオリンを取り出した。艶やかな木の色。弓を手に取り、軽く松脂を塗る。その手つきは丁寧で、慣れているのがわかった。
「何を弾くん?」カガミが聞く。
「……最近、練習してる曲があるんです。」
真由美はバイオリンを肩に乗せ、弓を弦に当てた。深呼吸一つ。
音が、流れ出した。
澄んでいて、優しくて、それでいてどこか切ないメロディー。ハナルはその音を聴いた瞬間、背筋が伸びた。何かが、胸の中で弾けた。
——この音。
——このメロディー。
ハナルは無意識に、膝の上で指を動かしていた。リズムを取っている。いや、違う。歌詞が浮かんでいる。頭の中で、言葉が次々と生まれていく。
「……もういいよ。」真由美が弓を下ろす。
「すごい!」カガミが拍手する。「めっちゃ綺麗やん!」
「ありがとうございます。」真由美が照れくさそうにうつむく。
晴奈も拍手をして、「とても素敵な音色でした。」と静かに言った。
その時、ハナルが突然立ち上がった。
「は、ハナルちゃん?」カガミが驚く。
「か、紙、ありませんか。」
「え?あ、ちょっと待って。」カガミが自分のリュックを漁って、ノートとペンを出す。
ハナルはそれを受け取ると、ソファに座って、必死に何かを書き始めた。ペンが走る。時々、顔を上げて、遠くを見つめる。また書き始める。
「どうしたんやろ。」キリカが眉をひそめる。
「わからん。」カガミも首をかしげる。
真由美はハナルの横顔を見つめていた。何かを生み出そうとしている人が、あんなに真剣な顔をするのか、と。
十分ほど経った頃、ハナルが顔を上げた。
「で、できた。」彼女はノートを握りしめて、立ち上がる。「あの、ちょっと、聴いてもらえますか。」
「え?今ここで?」カガミが聞く。
「は、はい。」
ハナルは深呼吸をして、目を閉じた。そして、歌い出した。
「あなたはいつも 誰かのために」
「自分を犠牲にして 泣いている」
「でも 本当は あなたも」
「誰かに愛されたいだけ」
ハナルの声が、リビングに響く。澄んでいて、優しくて、それでいて力強い。
「盲目になっても あなたを求める」
「闇の中で 手を伸ばす」
「たとえそれが 間違いでも」
「私は あなたの光になる」
キリカはドラムスティックを置いて、目を閉じて聴いている。カガミは口を開けたまま、動けない。真由美はハナルの歌声に、少しだけ目を潤ませていた。晴奈も本を閉じて、じっと耳を傾けている。
「全てを捧げる 私の全てを」
「あなたのために 私は歌う」
「誰も理解らなくても 構わない」
「あなたの声が 聞こえるなら」
ハナルが目を開ける。その目は、しっかりと前を向いていた。
「……これ、唯さんとアコさんに、贈る曲です。」
その言葉に、キリカが顔を上げた。
「唯とアコに?」
「は、はい。唯さんは、ユキさんのために自分を犠牲にしてばかりで……アコさんは、昔、自分のために生きることを許されなかった。で、でも、今は違う。」
カガミはうなずいた。「そうやな。この曲、めっちゃええわ。タイトルは?」
「……『Sacrifice』です。」
真由美はハナルを見つめていた。その目には、尊敬と憧れの色が混ざっていた。
「あの……さっきのメロディー、私が弾いたバイオリンの曲から思いついたんですか?」
「は、はい。」ハナルが照れくさそうにうつむく。「真由美さんのバイオリン、すごく綺麗で。なんか、頭の中で勝手に言葉が出てきて。」
「すごいです……」真由美が呟く。「私、人の歌詞を聴いて何かを作ったこと、ないです。ハナルさんは、本当にすごい。」
「そ、そんなことないです。」
「あるよ。」カガミが笑う。「ハナルちゃんは天才や。」
「ち、違います!」
その時、キリカが口を開いた。
「真由美。」
「はい!」
「お前、エルフィンってバンド、知っとるか?」
「えっと、聞いたことがありませんね。」
「そう。」キリカがうなずく。「あそこ、今キーボードが不足しとる。」
「え?」
「お前のバイオリン、キーボードの代わりになるかもしれへん。」
真由美はキリカをまっすぐに見つめた。その目には、驚きと戸惑いが渦巻いている。
「私……バンドとかやったことないし、それに、私の実力じゃ……」
「実力は関係ない。」キリカは続ける。「必要なのは、音を重ねたいって気持ちや。それさえあれば、あとはどうにでもなる。」
「でも……」
「真由美。」カガミが真由美の前にしゃがんで、その手を握った。「お前がやりたいかどうか、それだけ聞かせて。」
真由美はうつむいた。しばらく沈黙が続く。
「……私、もともと、バイオリンを弾くのが好きだったんです。」真由美の声は小さかった。「でも、周りから『クラシック』『地味』って言われて、なんか、恥ずかしくなって。最近は人前で弾くの、ほとんどなくなってた。」
「そうだったんや。」カガミが優しく言う。
「でも……さっき、ハナルさんが私のバイオリンを聴いて、あんなに素敵な曲を作った。」真由美は顔を上げた。「私も、誰かに届く音楽を作りたい。」
「それって――」
「もし、私でよければ……やってみたいです。」
カガミが真由美を抱きしめようとしたが、真由美がさっと避けた。カガミは笑って手を引っ込めた。
「よし、これでエルフィンも強くなるわ!ヒデミちゃんも喜ぶで。」
「お姉ちゃん、喜んでくれるかな。」
「もちろんや!」
その時、ハナルが真由美の手を握った。
「ま、真由美さん。よ、よかったら、あの曲、いっしょにやりませんか。」
「え?」
「わ、私が歌って、真由美さんがバイオリンを弾く。そ、それが、すごく観客に響くかもしれない。」
「でも、私はまだ――」
「大丈夫。」キリカが言う。「お前が決めたんやろ。『やってみたい』って。だったら、迷うことない。」
真由美はキリカを見て、それからハナルを見て、最後にカガミを見た。晴奈も微笑みながら「応援しています」と言った。
「……わかりました。やってみます。」
(From Dandy:
I'm updating later today because I'm not feeling so good. Hope you all understand. Love you guys.)




